諸葛亮は在野(誰にも仕えていない時期)には「臥龍」または「伏龍」とよばれていました。これは諸葛亮の才能が有名だった証でしょう。
一方、これまたその才能が評価されていた「龐統」は「鳳雛」と呼ばれていたそうです。なんだか大げさなあだ名ですが、どのような意味なのでしょうか?
今回の記事ではそんな「臥龍」「伏龍」そして「鳳雛」について探ってみたいと思います。
この記事の目次
人を見極める達人「人物鑑定家」
今のようにSNSが発展していない時代、人物を見極めるのは実際に会ってみるしかありません。そしてその中から優秀な人材を選抜する必要があったのです。そこで頼りにされたのが「人物鑑定家」と言われた人々でした。
彼らは多くの場合は学者であり、その門下生から優秀な人物を発掘し、人に紹介するなどしていたそうです。人物鑑定家はとても頼りにされ、彼らに評価された者は役所や武将に重く用いられたそうです。そんな人物鑑定家の1人、「龐徳公」という人物が、諸葛亮を「臥龍」、龐統を「鳳雛」と名付けたそうです。
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人物鑑定の達人「龐徳公」とは?
龐徳公は荊州の襄陽に住んでいました。普段は畑を耕したり、山に薬を探しに行ったりしていたそうで、いわゆる「世捨て人」に近い生活を送っていたようです。多くの人に慕われていたようで、彼の下には諸葛亮、龐統といった優秀な人材が集まっていました。
そんな中で龐徳公は彼らの才能を見抜き、諸葛亮を「臥龍」、龐統を「鳳雛」と名付け、彼らの評判は広まりました。荊州を支配していた劉表は龐徳公の評判を聞き、度々仕官を勧めていたようです。
龐徳公の妻子が草を刈っているのを見て劉表が「俸禄(給料)ももらわずに、子孫に何を残せましょうか?」と尋ねると、龐徳公は中国古代の皇帝「禹」「湯」が天下すべてを手に入れてもその子孫が不幸になった例を上げ、劉表はあきらめたといいます。ちなみに龐徳公は龐統の叔父にあたり、その子は諸葛亮の姉と結婚していたようです。
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そもそも「臥龍」「鳳雛」とはどのような意味なの?
「臥龍」「鳳雛」はとてもカッコよく見えるあだ名ですが、そもそもどのような意味なのでしょうか?「臥龍」とは天にも昇る勢いや能力がありながら、横になって寝ている龍の事です。
すなわち「優れた能力を持ちながら、世間にはいまだ知られていない人物」を指します。
一方「伏龍」は隠れて伏している龍を指し、池の中に潜んで天に昇るのを待っている龍の事で、「臥龍」と同じような意味です。「鳳雛」は伝説上の鳥「鳳」の雛、という意味です。
すなわち「将来優れた人物になると期待されている子供や若者」の事です。
「臥龍」と「鳳雛」を組み合わせて「臥龍鳳雛」「伏龍鳳雛」という単語もあり、これも「今は有名ではないが、いずれ大物になる優れた若者」という意味で今でも使われています。
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臥龍鳳雛を劉備に紹介した「司馬徽」(しばき)
臥龍鳳雛はのちに劉備に仕えることになるのですが、そんな二人を劉備に紹介したのが「司馬徽」という人物です。かれは前述の「龐徳公」を兄として慕っており、?徳公は司馬徽を「水鏡」と名付けていたことから「水鏡先生」とも呼ばれていました。
彼は「好」というのが口癖で、どんな不幸なニュースを聞いても「好」というような不思議な人物だったようです。しばらく誰にも仕えませんでしたが、死の直前には曹操に召し出されています。
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その後の臥龍鳳雛
臥龍鳳雛は両名とも劉備に仕えることになり、諸葛亮は劉備の軍師として、そして劉備の死後は蜀のために孤軍奮闘します。龐統は劉備の入蜀に大いに貢献しますが、残念ながら益州攻略戦の際に命を落としてしまいます。
臥龍鳳雛を手に入れた劉備は加速度的に勢力を拡大していき、天下に名を上げます。諸葛亮を「臥龍」、龐統を「鳳雛」と名付けた?徳公の人物眼はとても優れていたことは証明されたようです。
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三国志ライターみうらの独り言
現在では「臥龍鳳雛」と言われるような人は実に少ないですね。当時は情報が少ない時代でしたから、少しでも有能な人がいるとその人物が大げさに伝わることもあったのでしょうね。
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