水滸伝は大きく70回、100回、120回、と回数が違ってきます。主に70回は途中で終わり、100回はラストまで、120回はそこに色々な戦闘シーンを追加したもの……と言えばいいでしょうか。
今回は120回はひとまず置いておいて、70回と100回、そこに違いに注目しつつお話をしたいと思います。どうして70回で終わりではないのか、100回の果てに何が見えるのか、それを考えてみましょう。
70回まで
まず70回までのお話をざっくりと。ある日地上に放たれた108の魔星。これらは運命に導かれて、様々な経緯を経て一つの沼の滸に集結します。それこそが水滸伝であり、梁山泊です。
現代でもこれを元に「梁山泊」という言葉が使われますね。この梁山泊に集まった好漢たちは、それぞれが才能に優れた人物たちであったことから才人の集まりを梁山泊と読んだりとします。
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歴史上の宋江
この梁山泊、そしてその頭領である宋江には元ネタと言うべき人物がいます。
それは嘗ての北宋の時代に、反乱を起こした人物たちがいました。それこそ宋江であり、彼らに軍は敵わず、その勢いは凄まじかったことから朝廷内では「破れぬならば取り込むべき」として、朝廷は宋江らの反乱の罪を問わず、将軍として取り立てた、ということです。
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時代を超えて愛される中国四大奇書「はじめての西遊記」
歴史小説として
これが歴史小説として水滸伝になるにあたり、36名が108人となり、魔星の生まれ変わりとなり、色々な伝承がミキシングされていきました。
その中で「梁山泊に集う人たちは、大なり小なり罪(冤罪)を犯して社会からはみ出した人たち」「彼らが梁山泊入りする」「主にトップの宋江は国の先を憂いている」「国自体は悪臣たちがやりたい放題」というスパイスを利かせて煮込んだのが水滸伝です。
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梁山泊の最期
そして、宋江、というよりも宋江を頭領とした梁山泊は、歴史と同じように朝廷に帰順し、それからは国のために戦うことになります。70回は集まった所までで終わるので、100回はこの宋江らが帰順して国のために戦い、そしてどんどんと亡くなっていき、最終的に宋江自身も毒殺されておしまいというエンディングを迎えます。
100回と70回の終わりはこの違いがありますね。
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終幕の理由
この終幕の理由に、水滸伝が歴史小説である、ということがあると思います。歴史小説は歴史に沿って描かれる物語、その歴史は既にあったもので、細部には違いはあっても結末は変えられません。
三国志演義で劉備は呉に敗北します。それは既に夷陵の戦いという戦いが起こっていて、記録されているからです。如何に主人公格補正があってもそれは変えられないのです。
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