「連環の計」と聞いて思い浮かぶのは「赤壁の戦い」において呉が曹操軍の船団に用いた計略が一番有名なのではないでしょうか。
小説「三国志演義」では龐統が周瑜にその作戦を進言したことになっていますが、実はそのエピソードは「三国志演義」の創作だったのです。今回の記事では「連環の計」についてと、「三国志演義」での龐統と「連環の計」の関係についてみてみましょう。
この記事の目次
連環の計(連環計)とは?
「連環の計」もしくは「連環計」は小説「三国志演義」が初出ではありません。中国の「南北朝時代」(西暦439年から589年)に南朝の「檀道済という将軍が著した「兵法三十六計」という兵法書(著者は諸説あり)に出てきます。
「三十六計」での「連環計」は「敵が多ければ、正面から敵対してはいけない。敵が自滅するのを待ち、自軍は複数の計略(連環)を用いて敵の力を削ぐべし。」(意訳)という兵法となっています。
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小説「三国志演義」、龐統「連環の計」を提案する
曹操は袁紹を破り、荊州を手に入れようと大軍で南下してきます。これに対して呉の「周瑜」は曹操軍の軍船に火をつけて壊滅させる作戦を立てます。
しかし、通常では一隻に火をつけることに成功しても、他の船は逃げてしまい、大きな打撃を与えることはできません。そこで「連環の計」を提案したのは「龐統」でした。龐統はのちに蜀の軍師になることで有名な人物ですが、この時は周瑜に仕えていたのです。
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曹操軍、計略にハマり大敗する
龐統は自ら曹操軍に潜り込み、「船酔いを防止するには船同士を鎖でつなぐことが重要」と曹操に提案します。曹操軍は北方の人が多く、船に慣れず船酔いが続出していたため、曹操はこの提案を受け入れ、船同士を鎖でつなげます。
そして「苦肉の計」によって偽りの投降をした呉軍の「黄蓋」が軍船に火が付いた藁を積み、曹操軍船に突入します。
船同士がつながれた曹操軍は船を動かし逃げることが出来ず、火災は船に次々に燃え広がり、曹操軍は大敗します。この「苦肉の計」から「舟を鎖でつなげさせる(連環)」の一連の計略を「三国志演義」では「連環の計」と呼びました。
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正史での「赤壁の戦い」
正史「三国志」では「連環の計」は出てきません。曹操軍は慣れない地方で疫病に悩まされており、そこに「黄蓋」の提案で、
偽りの降伏で曹操軍を油断させ、油をかけた薪を満載した「火船」を曹操軍に突入させ、曹操軍の船を焼いた、と記されています。正史では龐統は「赤壁の戦い」には登場しませんし、「舟同士を鎖でつないだ」という描写はなく、このあたりは小説「三国志演義」の創作だと思われますね。
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