平安の昔、さる左大臣の家に生まれた双子の男女、男の子は内気で大人しく、女の子は活発で聡明でした。父の左大臣は、二人の性格が反対ならよかったのにと悩み、ついに男女の性別を取り替えて育てる事を思い立ちます。
そんな昔話からヒントを得た三国志とりかへばや物語、今回は筆者もかなり頭を悩ませて悩ませました。その筆者の頭を悩ませまくったのは誰あろう、陳宮です。
「どうして陳宮のとりかへばやにそこまで頭を悩ませているんです?」という皆さんへのご回答をしつつ、陳宮のとりかへばやを見ていきましょう。
イヤホント、陳宮のとりかへばやは難しかったんですよ……ぜひ皆さん、陳宮のとりかへばやを考えて下さい。そしてできたらこっそり教えて下さい
この記事の目次
曹操を裏切った理由が不明の陳宮
さて陳宮、字は公台。ざっくりと正史で見ていくと曹操に仕える。何を思ったか曹操を裏切る。呂布に鞍替えする。呂布も裏切ろうとした感じだけど、これは不明。そのまま呂布に仕え、曹操に乱世で勧誘されたけど最期は呂布に殉じた。
こういう感じになります。実は陳宮の考え、どう思ったかは正史にも記録されていないので、なぜ曹操から離反したのかは分かっていません。このため、三国志演義ではかなり脚色されることになります。
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呂伯奢事件を契機に曹操とギクシャクした?
さて三国志演義での陳宮は、いつか素晴らしい主君に仕えようと毎日頑張って生きていました。そこで出会ったのが曹操です。
陳宮は曹操をこの方こそ我が主!と思うものの、直後に起こったのが呂伯奢事件。これで陳宮は曹操を見限ろうとするも殺すことはできず、徐州の陶謙を曹操が攻撃しようとした際に曹操を諫め、聞き入れなかったことで完全に断絶。
その後、呂布を主と定めるもその進言は幾度も撥ねつけられ、不遇のまま終わります。ただし正史での曹操とのやり取りはそのままなので、やはり最期の見せ場はしっかりと演出されていますね。
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何がしたかったのか不明な陳宮
前述したように、陳宮は曹操、呂布と仕え、最期は曹操に惜しまれながら、そして呂布を罵りながらも、その呂布に殉じて終わりました。ですが陳宮がどうして曹操から離反したのかは分かっていません。もっというと途中で呂布を裏切ろうとしたかどうかもはっきりしていないのです。このため様々な陳宮が生まれ、描かれてきました。
さあそんな陳宮をとりかへばや、頑張って考えてみましょうか。
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劉備に忠義を尽くした諸葛亮とトレード
軍師ということでやはり一番手では諸葛亮はどうでしょうか?
まあぶっちゃけると諸葛亮と呂布の相性はお世辞にも良いとは思えませんが、呂布軍にはまだこの頃は高順がいますからね。個人的に高順と諸葛亮の友人関係は見てみたいです。
さて陳宮が理想の主を探してます軍師なら劉備はそこそこな相性を見せると思いますが……もし実は劉備を利用したいだけの軍師だったならばどうでしょうか?
劉備もさる者、ある程度までは陳宮を利用して……どうかな、法正がやって来るぐらいでお役御免でしょうか……?
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曹操が生涯惜しんだ郭嘉とトレード
曹操に惜しまれたという繋がりから郭嘉はどうでしょうか?
ただし郭嘉は袁紹に出会った後に「主の器じゃない」とあっさり見限ってしまうほどの行動の早さを持っています。猜疑心が強く、自分を重用しないとなると呂布への見切りは早そうです。
一方ですが曹操の念願だった陳宮ですが、陳宮は信念を曲げないですからね。ずっと曹操の配下でいるかどうかは怪しい所です。曹操の信頼、寵愛が陳宮から離れた時、やはり陳宮は歴史の舞台から自ら降りそうですね
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