呂布軍というと皆さん誰を思い浮かべるでしょうか?
その勇猛さ天にも轟く・呂布。曹操に惜しまれながらも、最期は呂布に仕えたまま終えた陳宮。
後の暴れっぷりが凄くて三国志演義の方であれでも活躍を削られている張遼。
え?赤兎馬?うん今回は馬ではなく人の方で……ということで。実はもっともっと評価されるべき呂布軍の名将、高順のお話をしましょうか。
呂布配下・高順
高順は呂布の配下武将、といってもその地位は中々に高いものです。なんと出てきた時には既に都督の地位であり、後に中郎将の地位に付きます。
この中郎将の地位は色々な種類があるのですが、主に皇帝の周辺を守る重要な役割であり、信任された人物でないと着くことはできないボディーガードのような立場、というと分かりやすいでしょうか。
ともあれ、高順はそれほど呂布軍において高い位置にいたのです。……実はそこに至るまでどんなことをしていたのかは不明なのですが。
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高順、活躍しています
そんな高順を語るとなると、彼の通り名を紹介せずにはいられません。その呼び名は「陥陣営」。これは高順が攻撃した敵の陣は必ず撃破される、ということから付けられた名前です。この事から呂布や張遼にも引けを取らない猛将であることが窺い知れるでしょう。
呂布軍というと呂布の凄まじい強さ、そしてそれにも劣らぬ後の張遼の凄まじすぎた強さにばかり目を奪われますが、決して高順もそれに劣っていた訳ではないのです。
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高順は活躍しているのですが
また高順は義に厚い性格であり、清廉潔白な人柄であったとか。それが分かるのが「高順は酒を一切飲まず、贈り物も受け取らなかった」というお話。贈り物とは恐らく賄賂の類と判断すると、高順の潔白さも分かりますね。あとお酒飲まないのはいいね!ね!(誰かを見つめながら)
そんな高順は196年6月には、呂布の部下が反乱を起こした際にこれを迅速に鎮圧。二年後の劉備との戦いでは沛城を攻め落して劉備の妻子を捕え、救援の夏候惇を追い払うなどしっかりとした働きを見せています。
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寡黙だった高順
呂布はこの高順の働き、その忠誠を評価していますが、しかして呂布の高順への扱いは良いとは言えません。ある時、呂布は高順の精兵を取り上げ、魏続に渡してしまいました。この魏続は呂布と親戚関係にありますから、何とも縁故的なものを感じます。
この後で戦いが起こったので呂布は魏続の兵を高順に与えて戦わせています。それでも高順は呂布に怨みを抱くことなく、従い続けました。まあその一方で陳宮とは仲が悪かったみたいですけれど。そしてこれが後で効いてくるんですけど。
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高順の最期
ある時、呂布は曹操に追い詰められて下ヒで籠城を行います。この時に呂布は陳宮、高順に城を防衛させ、自ら出陣して曹操軍の補給路を断とうとします。ここでこれに異を唱えるたと言われるのが呂布の妻、厳氏。厳氏は陳宮と高順が仲が悪いことを指摘し、結局この作戦を呂布は取りやめました。
結果、呂布は敗北し、陳宮、高順両名も捕縛されて曹操の前に引き出されます。呂布は最期は曹操に自分を配下として引き入れるよう言うも劉備の進言で却下され、
陳宮は曹操に惜しまれながらも決して振り返らず、そして高順は最期まで呂布の配下として、三人は歴史から消えたのでした。この高順の最期は三国志演義でも同じく、最期まで呂布への忠義を貫いての退場となっています。
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