司馬家の息子たちは全員字に「達」字が入っていて、誰も彼もが優秀であったことから「司馬の八達」と呼ばれました。この司馬家は後々、新王朝を開くこととなるので、晋の時代に移り変わるとそりゃあもう有名どころが司馬ばかり出てきてびっくりしますね。
そこで今回は(筆者の)気分を変えるべく、夏侯家、夏侯淵の息子たちについてのお話をしましょう。合わせて三国志演義で長男とされた夏侯楙についてもちょっと考察してみます。
この記事の目次
夏侯淵には七人の男の子がいる
まずは夏侯淵の息子たちを順番に。
夏侯衡:長男
夏侯覇:次男
夏侯称:三男
夏侯威:四男
夏侯栄:五男
夏侯恵:六男
夏侯和:七男
と、見ているだけで分かる子だくさん。
この中で三男・夏侯称は武芸に優れていたものの早逝し、また五男である夏侯栄は曹叡とは親友だったと言われていますが、定軍山で父親・夏侯淵が討ち死した際に後を追うように彼自身も討ち死しています。
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消えた夏侯楙
と、ここで「夏侯楙は?」と思った方もいらっしゃるかもしれませんね。何せ三国志演義では夏侯楙は「夏侯淵の長男だったけど夏候惇の養子にいった」とされています。
そもそも三国志演義の方では夏候惇と夏侯淵が兄弟になっているので、子供がいない兄の養子になったとなればそんなにおかしいことではありません。しかしこの夏侯楙、中々に立ち位置が面白いキャラクターです。
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三国志演義では無能な夏侯楙
さて三国志演義の夏侯楙、夏侯淵の息子で夏候惇の養子にいく、という驚きのネームバリュー血統賞を見せつけてくれますが、何がどうなったのか分からないくらい暗愚の代表格のように描かれています。
しょっぱなから金勘定にしか興味ないと言われ、無能なのにプライドが高いと言われ、魏延から「こいつが長安の司令官とか奇襲余裕っすわ」と言われ、諸葛亮の北伐に意気揚々と総大将になったかと思いきやびっくりするほどボロ負けしてそこから逃げて魏には帰りませんでした……となる始末。
止めのように司馬懿が「夏侯淵殿の御子たちを従軍させたいです」と言った際に曹叡から「逃げて帰ってこない夏侯楙と比べてどうなん?」とまで言われてしまう扱いです。
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正史でもろくでもない夏侯楙
とはいえこれは三国志演義、演出かかっているだけで本当はもっと優秀なんでしょ?と思われるかもしれませんが、正史の夏侯楙も夏侯楙で評判が良いとは言えない人物。
夏候惇の実子で曹丕の幼馴染みで友人だったからか曹操の娘を嫁に貰ったまでが良い所で、そこから漢中に赴任するやいなや愛人を大量に作って嫁から非難され、実の弟たちと揉めて処刑されかかるというこちらも散々。
果てにはお金が大好きで横暴なのに臆病な性格は魏以外でも評判だったのか三国志演義と同じように魏延に言いたい放題言われてしまいます。
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正史では夏侯惇の息子の夏侯楙
ここで気になったのが夏侯淵の息子設定。夏侯楙の話自体は正史にもあまり記述がなく、正史でも三国志演義でもほとんどやっていることは変わりがないという人物像です。
しかしそんな夏侯楙の唯一の変更点が「夏候惇の実子」から「夏侯淵の息子だけど夏候惇の養子になった」になっている所。この変更点はどうして起こったのでしょうか?
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