龐徳公と言えば、荊州襄陽の人物鑑定家で親交があった司馬徽を水鏡、諸葛亮を臥龍、従子である龐統を鳳雛と名付けた事で有名です。
しかしケタ外れの「良きかな」で有名な司馬徽と違い龐徳公の人柄はイマイチ伝わってきません。彼は一体どんな人物なのでしょうか?
劉表の誘いを断る
襄陽記によると龐徳公は峴山の南、沔水のほとりに住みながら自ら田畑を耕し、休息する時には居住まいを正して琴を弾き、書物を読むなど悠々自適な暮らしをしていました。
ただ、異様なのは襄陽城には一度も入った事がないという記述がある事です。当時の荊州江北の支配者は劉表でしたが、襄陽城に入った事がないという事は劉表に手を貸す気が無かったという事になります。
劉表は何度も使者を立てて招聘しますが、どうしても上手くいかないので、遂には自ら出向き「先生は家を守るばかりで天下に名を残そうとする気がないのですか?」と強い調子で勧誘します。
龐徳公はそれに対し
「古来、賢人が天寿を全うできず不幸になるのは能力がないのではなく、天下に近寄ろうと危険を冒すからです。そもそも天下などにどうして守る価値がありましょう。私は世の人とは反対に危険を冒さず身の丈を守り、禽獣がおのおの住処を得るように子孫に安楽を残します」と答え平然としていました。
劉表は龐徳公に野心がない事を悟り、愕然として帰るしかありませんでした。
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諸葛亮が常に敬っていた龐徳公
そんな龐徳公ですが、実際には荊州でも指折りの名士であり、家格では劉表の後ろ盾になっている蔡氏や蒯氏よりも上だったようです。
だからこそ劉表は、すでに蔡瑁や蒯越がすでに配下にいるにもかかわらず龐徳公を配下に加えたかったのでしょう。自らには出世の野心がなかった龐徳公ですが、全く天下を憂いていないわけではありませんでした。
彼は荊州のインフルエンサーとして司馬徽や諸葛亮、従子である龐統に水鏡、臥龍、鳳雛のあだ名をつけて世間にPRし名前を売って仕官させようと腐心していたのです。
若き日の諸葛亮は龐徳公の屋敷を訪れると、龐徳公の座る牀に拝礼していたそうで、龐徳公も諸葛亮の将来性を買い、孔明の姉は龐徳公の子、龐山民に嫁いでいました。
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司馬徽の進め電波少年方式
司馬徽にしても、龐徳公と交遊を結ぼうと家に強引に押しかけています。
そして怪しんでいる龐徳公の家族に「門人の徐庶に先生とアポイントを取らせたから来た。まず食事を用意して!」と御馳走を用意させると主人のようにアレコレ指図し1人で飲み食いして龐徳公を待ちます。
やがて何も知らない龐徳公が戻ってきて司馬徽を見ますが「誰この人?知らない…」とポカンとしていたそうです。しかし、強引な売込みが龐徳公に気に入られ、司馬徽も水鏡のあだ名を貰いました。諸葛孔明にしても司馬徽にしても劉表とは距離を置いていた人々で、龐徳公は反劉表勢力の中心だったようです。
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モッサリした従子を売り込む親心
龐徳公に評価された事で名声が上がった司馬徽を今度は龐徳公が利用します。自分の一族の子で才能がありながら、どこまでもモッサリした龐統18歳を評価してもらおうとしたのです。
本来なら自分で褒めちぎりたい場面でしょうが、そんなのはどこまでやろうと身内の身びいきと思われてむしろ反感を買いますから、一応他人の司馬徽を使おうと考えたのでしょう。
司馬徽は龐徳公の意図に応え、木の上で作業をしながら龐統を迎えました。龐統は木の下で司馬徽は木の上で日没まで語り明かし龐統は司馬徽を大人物だと尊敬し、司馬徽は「この人は荊州人士の筆頭になるだろう」と評価します。
この時から龐統は世間に名前が売れ始めたとの事です。なんとなくヤラセの臭いがしますが、龐統は確かに優秀なので司馬徽は忖度したのではなく事実を述べただけでしょう。
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鹿門山に隠棲して生涯を閉じる
龐徳公の晩年は正史三国志には出て来ませんが、襄陽記によると「後に妻と子供を連れ鹿門山に登り薬草を採りにゆくと告げたが、それ以来行方知れずになった」とあり、おいおい失踪かよとザワザワした気持になります。
しかし、鹿門山でWEB検索した所、ここには前漢の襄陽侯習郁という人物が、山で神を見て建立した鹿門廟があり現地では龐徳公隠棲の地と考えられているようです。
つまり、龐徳公の時代には、すでに霊廟があり誰もいない寂しい山ではなく、龐徳公が遭難したというような事はなさそうです。鹿門山は襄陽城から南に15キロ離れた場所で、龐徳公がいよいよ俗世が嫌になり元々の住居があった沔水のほとりから引っ越して、あまり下りてくる事が無かったというだけかも知れません。
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三国志ライターkawausoの独り言
今回は龐徳公について語ってみました。司馬徽同様、自身は生涯仕官しなかった龐徳公ですが、決して天下の事に無関心ではなく、有為の人材については何とか世の中にだそうと出来る限りの努力をしていたようです。
そういう内面に熱い志を持った人でなければ諸葛孔明も司馬徽も龐徳公に近づこうとはしなかっただろうと思います。
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