橋公の二人の娘、姉を大喬、妹を小喬、絶世の美女であった二人を妻にしたのは孫策と周瑜。
周瑜は「「江東の二喬」は確かに美女ではあるが、我らを夫にできて幸せだろう」……と言ったとされますが、今回はそれはこっちに置いておいて。
今回ご紹介するのは「江東の二張」と呼ばれた方の一人、張紘についてのご紹介です。実は幾人もの英傑に関わってきた彼の生涯を見ていきましょう。
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張紘は曹操より2歳年上
さて張紘ですが、その生まれは153年。曹操の生まれが155年となっているので、それよりも年上となります。若き頃から学問に励んでいた彼の優秀さは有名であり、茂才によって推挙されかかるも何進らからの呼び出しに応じず、戦火を避けるために江東に赴きました。
ここで彼を見つけたのが孫策です。孫策はよっぽど張紘が気に入っていたのか、張紘が母親を亡くして喪中であったにも関わらず訪ねて勧誘しました。そして張紘はこれに応じ、それからは度々自ら先頭に立って戦う孫策を嗜めていたと言います。
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曹操にスカウトされたが断る
199年、張紘は許都に赴きます。この際に有能な人材に目を付けて欲しがることに定評がある曹操、乱世の奸雄らしく勧誘(笑うところ)をしますが、これに応じず。しかしよりにもよって翌年に孫策が突如死に、まだ若い孫権がその後を継ぎました。
ここで張紘は「他人の喪に付け込まず、恩義を与えるべき」と言い、ひとまず孫権のことは置いておくことにしました。何気に孫策が押し掛けた時には張紘は喪中だったのでは、なんて思ってはいけません。ともあれひとまず孫権の身は助かり、その後、張紘は孫権の元に戻ります。
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211年に孫権に惜しまれつつ死去
211年、孫権は当時、本拠地を呉郡にしていましたが、この時に後の建業に移します。これは張紘の考えであり、またその方が良いと孫権も劉備もこれに同意していたと言われています。
しかし呉郡に孫権の家族を迎えに行った張紘、その道の半ばで病没。我が子に孫権への手紙を託し、それを読んだ孫権は涙を流したとあります。ここで正史における張紘は退場となります。
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もう1人の張氏、張昭
さて冒頭でも話した江東の二張、もう一人は皆さまも良くご存知の張昭ですね。そう、孫権と良くガチバトルを繰り広げるおじいちゃんです。彼らが二張と呼ばれるのは、実は三国志演義が始まりです。三国志演義では張昭と共に江東の二張と呼ばれ、孫策から孫権へと主が代替わりすることになります。
この時に張昭の口利きによって、張紘は孫権に仕えるようになりました。おじいちゃんキャラクターとして孫権に苦言を呈する役回りですが、張昭ほど目立ってはいないのも特徴でしょうか。
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張紘は呂布にスカウトされた事もある
さてかつては何進ら、そして曹操にも引き抜かれそうになった張紘。実はもう一人、孫策から張紘を引き抜こうとした人物がいます。それこそがかの飛将軍、呂布。しかし張紘は呂布を嫌い、孫策が断ったと言います。
部下たちとはフランクに付き合った孫権ですが、張紘は「東部殿」と呼んで敬ったと言います。張紘は孫策だけでなく、孫権にも「大将があまり前に出るな」と苦言を呈したとも言い、兄弟を共に諫める役回りだったのでしょう。
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