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偉大な兄・孫策と孫堅の扱い
さて孫権は晩年に皇帝となりました。この際に、父である孫堅は「武烈皇帝」と諡されています。孫権が皇帝なので、その父親である孫堅もまた皇帝として諡されるのは分かります。しかし孫権の先代として、兄である孫策は「長沙桓王」と諡をされています。
孫策は皇帝という諡はされず、あくまで「王」なのです。この時点で孫策の息子もいましたし、孫権も孫権で息子がいたので、後継者問題を起こさないための処置ということもできますが……いやもっと酷い後継者問題が後から出てくるとも言えますが。
ともあれ、この一件で「孫権はそもそも兄の孫策を好ましいと思っていなかった」という説があるのは事実です。
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陸遜の立ち位置
事実、どうであったかは後世の私たちには知ることはできません。しかし孫権が内心で兄の孫策をそこまで好ましいと思っていなかったと仮定すると、当時の呉の重鎮たちがそれに全く気付かなかった、ということもないでしょう。
そんな中、陸遜には孫策の娘が与えられた。
あくまで孫策は孫権の兄である、しかし、実情として孫権は孫策を好ましく思っていない。そんな孫策の娘を与えたということは「陸遜に対する孫権の評価はそこまで」ということになり得ると思います。
そこで諸将はそれを空気で察し、陸遜を侮るようになった……という、孫兄弟不仲説から、陸遜への諸将への対応を考察してみましたが、いかがでしょうか。
まぁ重鎮が言うことを聞いてくれなくて苦労する、というのはどの国でもある構図。とは言えこう考えると、孫権の対応もちょっと配慮が足りないような気もする、筆者でした。
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三国志ライター センのひとりごと
例えば、魏では曹真が亡くなって後任に司馬懿が派遣されました。この際に司馬懿は諸将を抑えきれず、曹叡に相談した所、辛ピが派遣されてきた。この辺りは三国志演義にも乗せられていますね。
ですが陸遜の場合は、孫権に相談はしなかったようです。
これを筆者は「孫権に心配させないようにしたんだなぁ」と思っていたのですが……もしかして、陸遜自身もまた、孫権から自分に対する評価を感じ取っていたとすると……中々呉の国が修羅の国になるな、と思いましたね。
どぼーん。
参考文献:呉書陸遜伝 魏書辛ピ伝
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