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陸遜の活躍
樊城を守ったのは主に曹仁ですし、徐晃や満寵、考えによっては于禁の働きもありますが、そもそもとして関羽が討たれるに至った理由に、糜芳や傅士仁らの寝返りもあります。
元々彼らは関羽と関係が良くなく、呂蒙はそれに注目して両者を離反させ、陸遜もその他の荊州領を抑えて行くなど、関羽の性格を利用し、人間関係のよろしくない部分を突いての策略で関羽を討ち取るに至りました。
なので直接的に関羽を討ち取ったのは呂蒙ですが、そこに陸遜の働きも多くは貢献しているのです。
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三国志演義では関羽に呪われて呂蒙は死ぬ
さて三国志演義では関羽に呪われて呂蒙は死んでしまいます。実際には呪いということはなく、既に呂蒙は病にあって亡くなったのではないかと思いますが、時期的にも良いストーリーとなることもあって、そういう設定にされたのではないかと思われます。
しかし、実際に呪いがあったと言うならば。寧ろ関羽の呪いを受けたのは陸遜ではないか、と思う筆者です。
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関羽の呪い
関羽はその性格から周囲と軋轢を起こし、それを利用されて討ち取られました。
では陸遜はその後、どうなったでしょうか。二宮の変をご存知ならば、良くお分かりでしょう。陸遜は孫権の後継者問題に巻き込まれ、対立派閥による讒言によって孫権に疑われ、失意の内に憤死したと言われています。他国の敵に討ち取られたのではなく、自国の人間関係によって、陸遜は命を落としたとしたら。
それは巻き込まれたのではなく、嘗ての関羽の呪いだったのではないでしょうか。
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三国志ライター センのひとりごと
晩年の陸遜、別に驕っているとかではないのですが、物の言い方が遠慮がないというか……全琮への言葉と言い、ピリピリしていたのかもしれませんが、やや配慮に欠ける部分があると思います。
ふとそこに注目してみると、どこか周囲と上手くやることができなかった関羽を思い出しました。そうするともしや、関羽の呪いは呂蒙ではなく、陸遜を襲ったのでは……そんなことを考えてちょっと怖くなる、筆者でした。
ちゃぽーん。
参考文献:呉書呂蒙伝 陸遜伝 三国志演義
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