古の昔、関羽とう類い稀なる武人ありき。かの人の武勇と軍略、義侠心は天下に知らぬ者はいないほどであったそうな。
しかしかの武人は同盟者の卑劣なる裏切りにより、戦場にて儚く散ることとなる。だがその裏切りを天は許さず、関雲長を処刑した呂子明、その呪いにて命を落とす――。
というのは三国志演義では定番、関羽の呪いで呂蒙は死んだようにされています。しかし実際に関羽の呪いを受けたのは陸遜ではないか?
今回はそこに注目してみましょうか。
三国志演義と正史三国志
まずはちょっと関羽の顛末に付いて。
三国志演義では関羽は呉の裏切りによって死んだようにされていますが、実際にはそもそも呉とはかなり関係が悪化しており、正史にも「関羽は驕りから呉への備えを怠った」と言うように書かれており、呉の裏切りというのは事実無根であります。
ただ樊城を落とせないまま呉に後ろを突かれ、最期は捕まって処刑されるのは同じですね。
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三国志演義では孫権を罵る呂蒙
え、三国志演義ではここから脚色が追加されます。呉の武将である呂蒙は関羽を討ち取り、その三日後に孫権が開いた宴に出席した時のこと。
ここで呂蒙は関羽の亡霊に憑りつかれ、孫権を口汚く罵ります。そこで関羽は「この呂蒙の魂を道連れにしてやるぞ!」と……殆ど悪霊みたいなことを言い出し、その後、呂蒙は体中から血を吹いて死んでしまいました。
実際に関羽を討ち取って程なくして呂蒙は亡くなりますが、あくまで正史には病死としか書かれていません。
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呂蒙の死
実際に呂蒙がどのように死んだのかは不明です。とは言え周瑜しかり、割と呉の武将は病死しやすいので、土地柄病が流行りやすい可能性はあったでしょう。
また、関羽とのにらみ合いの中で「呂蒙は病と偽って関羽を油断させようとした」「病ということで建業に返った時、陸遜と話して代理は陸遜が適任であると考えた」というものがあります。
ここではあくまで「病のふり」ですが、もしかすると実際に体調不良を起こしていたとも考えられます。そして関羽という強大な敵を排除して気が緩み……とも考えられないでしょうか。
で、陸遜に話は移ります。
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陸遜の抜擢
ここで呂蒙に代わって抜擢されるのが陸遜なのですが、陸遜は関羽を油断させます。具体的に言うとお手紙を出します。内容的には「関羽将軍ちょーつよい!さすがです!あっしでは到底かないませんぜ!
これからは関羽将軍を見習って勉強させてもらいますね!(超意訳)」というお手紙です。これを貰った関羽、陸遜がまだ無名ということもあって油断し、呉に対する備えを怠るようになった……という訳ですね。
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