「司馬昭」は司馬懿の息子で司馬師の弟です。彼は兄とともに司馬家が魏の帝位を簒奪するための準備をした人物として知られていますね。
元々は配下でありながら、皇帝である曹一族をないがしろにして政治を行っていたため、司馬昭の評判はあまりよろしくありません。今回の記事ではそんな司馬昭のプロフィールから意外な逸話まで紹介していきましょう。
この記事の目次
司馬懿の息子として生まれ、意外な一面も見せる
司馬昭は司馬懿の次男として生まれました。そして父司馬懿の功績により、とんとん拍子に出世をしていきます。
時の皇帝は曹叡。彼は諸葛亮が北伐を行っている間はその対応に追われていましたが、諸葛亮が死ぬと、どうやらタガが外れてしまったようです。
大規模な宮殿の建設や民衆からの徴発を行い、農民を強制労働させ、農村は荒廃しました。しかし、司馬昭は農民の徴発を行わず、農業に専念させたので、民は感謝したと言います。冷酷なイメージのある司馬昭の意外な逸話です。
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父とともにクーデターを起こし、魏の実権を握る
その後、敵対していた曹一族の「曹爽」をクーデターによって殺害し、魏の実権を完全に掌握します。ただ、このクーデターは司馬懿と司馬師が主導し、司馬昭は当日まで知らされていなかったようです。
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姜維を何度も撃退する
司馬家が魏の実権を握ってからは、蜀の「姜維」の北伐にもっぱら対応しました。司馬昭は、策謀家のイメージですが何度も進行してくる姜維を計略をもって撤退させるなど、軍事面で活躍していました。また、北方の異民族を撃退するなど、辺境まで軍を進めており、かなりアグレッシブに戦っていたと考えられます。
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兄・司馬師が死に、魏の実権を握る司馬昭
転戦していた司馬昭ですが、そんな時に兄の司馬師が亡くなります。司馬師には跡継ぎがいなかったので、司馬昭が魏の実権を握ります。
そんな彼を苦々しく思っていた人も当然いて、西暦257年には「諸葛誕」が反乱を起こし、それを鎮圧しています。
しかし、この戦いの後にも逸話があり、司馬昭は反乱に加担し、降伏した武将や兵をすべて許したのです(ただし諸葛誕や降伏しなかったものは皆殺し)。寛容な司馬昭を見せた意外な逸話です。
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