今回は関羽……の両脇を固める二大武将、関平と周倉についてです。
関羽と言えば、やはり三兄弟である劉備と張飛が出てくる、もしくは赤兎馬、いやいやそれとも……と、名だたる武将たちの名前が出てきますが、個人的に関羽の両壁、というと関平と周倉ですね。
ですがこの二人、どちらかと言うと三国志演義で光が当てられたのはご存知でしょうか。今回はその辺りもちょっと考えてみたいと思います。
正史の関平について
さて三国志演義ではなく、正史三国志の関平について。関平は独立した伝は立てられておらず、関羽伝にその記載があるのみです。とは言え、良く武将の子たちが伝が付随するのは……と思いきや、出てくるのはたった一文。
「関羽と一緒に子の関平も斬られました」という文章が関羽伝に記載されているのみなのです。これは一体どういうこと!
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かなり不明
さて、前述したように関平は独立した伝どころか、関羽伝に付随しているとかでもなく、短い文章があるのみです。更に言うと名前が関平であるということしか分かりません。一応、子、と書かれているので、実子である、ということが分かる程度でしょうか。
このように、関平というのはかなり存在が良く分からない人物でもあるのです。では関羽の両脇を固めるほどの武将になったのは何故か、そこには三国志演義の働きがあるのですね。
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三国志演義の関平
では三国志演義の関平のお話を。関羽が曹操の元から離れ、何だかんだ色々あって張飛と再会、そして劉備とやっと再会します。この時に関羽が途中の宿を求めたのが、関定という人物でした。この関定の息子こそが関平です。
関定は武勇に優れている息子の関平を関羽の部下にしてくれないか、と頼みます。そこで劉備が「関羽はまだ息子がいないから養子にしようぜ!」となって関平は関羽の養子となるのでした。
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関平の活躍と終焉
そこから関平は様々な場所で活躍することになります。特に劉備の養子である劉封とは良く一緒に登場し、夏候惇や周瑜などを相手に働きます。
そして関羽が荊州の守護となってからは共に行動をしているためか出番がなくなり、次に出るのは襄陽の戦い。ここが最大の活躍とも言え、ホウ徳と互角に戦ったり、関羽を宥めたりするなど次代の武将の才覚を見せつけてくれます。
しかし呉の裏切りにより一気に佳境に立たされた関羽親子、決死の脱出は失敗し、義父関羽と共に関平は捕縛され、最期は共に斬られてしまうのでした。
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