さて皆様は夷陵の戦いをご存知でしょうか、ご存知ですね。三国志末期……というよりも、実際に年表で考えると「三国となってから起きたでっかい戦い」というべき戦いであり、そして三国の関係に決定打を打ったような戦いです。
しかしこの夷陵の戦い、様々な思惑が交差して面白いこと面白いこと……という訳で、今回はこの夷陵の戦いを、蜀の方面から見て、色々なことを考えてみたいと思います。
スタートは樊城
さてさて、夷陵の戦いはある日突然始まった訳ではございません。始まりはこれより数年前のこと、蜀の将軍、関羽が荊州から北上、魏の居城である樊城を攻撃しました。
樊城を守るのは曹仁と満寵、曹操は急いで救援として于禁に大軍を率いて行かせるも、不運なことに長雨からの川の反乱によってこの援軍は壊滅し、于禁は降伏することになります。
またこの戦いでは魏将、ホウ徳が関羽に捕縛され、曹操への忠義を貫いて降伏を良しとせず、関羽に斬られました。既に曹魏の被害は大きなものとなっています。
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曹操「やばい」
正に関羽の快進撃、それはホウ徳を討って尚止まることなく、樊城は包囲されます。この時の樊城は折角の救援が途中で降伏、更には関羽に包囲され、もっと言うと城は水害で殆ど水没状態という有様。
もはやどうしてここまでされて落城していないのか不思議なほど。余りのことに曹操が遷都を考えるほどで、関羽の勢いの凄まじさを感じることができます。
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(関羽)巨星、落つ
しかし、関羽の快進撃はここまででした。以前より関係が悪化していた呉が関羽の背後を急襲、更には魏から再び大軍の援軍お代わり、それを率いるのは徐晃、そして全く持って不思議なことに落ちる気配がない樊城……最終的に、関羽は捕縛され、処刑されました。
こうして蜀は関羽だけでなく、荊州と言う戦略上の観点から見てとても重要な要地まで失ってしまったのです。
かくして関羽の死に劉備は激昂、周囲の者が止めるのも聞かずに呉との戦いを始めました。これこそが、後に夷陵の戦いと呼ばれる蜀と呉の戦いです。
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三兄弟、閉幕
夷陵の戦いは、最初こそは蜀が優勢でした。寧ろ呉を圧倒していたと言っても良いかもしれません。そこで出てくるのが陸遜による火計。
蜀からの長く伸びきった補給路、そして万が一の退路を攻撃され、またそこに呉の名だたる武将たちが攻めかかり、蜀軍は壊滅。劉備は何とか逃走するも、多くの将たちを失ってしまい、そのまま白帝城にて病没しました。
先んじて張飛も亡くなっているので、三国志演義ではここで序盤の夢を膨らませてここまでやってきた桃園三兄弟の退場となってしまいます。
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