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袁譚に敗れて兄の袁煕と遼東半島まで逃亡
さあ袁家名物かどうかは知りませんが、兄弟喧嘩が始まりました。そもそも曹操がやって来てるのにその対応も碌にしないまま兄弟喧嘩です。
で、袁尚が勝ちました。
そしてこのままじゃ袁尚に負ける!と焦ったのか、アドバイスに定評のある郭図の指示で曹操に降伏した袁譚。結局この後で袁譚は一足先に曹操に処刑されますが、追い込まれた袁尚はもう一人の兄である袁煕の元に逃げ込むことに。
袁煕は袁尚を受け入れるも、配下はそうではなかったようで……兄弟は逃げに逃げた先で更に裏切られ、二人揃って処刑されることになったと言います。
袁煕とは?
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子どもっぽい逸話が多い袁尚
そんな袁尚の数少ないエピソード。
・兄と後継者争いで揉めた際に崔エンを呼び寄せようとして断られたために投獄する。
・後継者を宣言した後で母親の劉氏に言われて袁紹の寵姫たちを族滅する
・公孫康に処刑される直前に「寒いから筵を頂戴」と言って兄、袁煕に窘められると、これくらいしか本人を窺い知れるものがありません。
という訳で三国志演義でもあまり良い人物……ぶっちゃけ無能なような人物像で描かれてしまったのですが、ここでちょっと考えてみたい一説があります。
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袁尚は幼児だったのではないか?
さて、長男である袁譚は青州刺史に任ぜられていました。対して次男である袁煕は幽州刺史に任ぜられています。しかし、袁紹に寵愛されていた、と言われる割に袁尚には特に何の役職に就けられた、とは記録されていないのです……いやまあ後継者にする気だったから何もさせなかった可能性もあるんですが。
そしてエピソードがどうにもわがままと言うか、子供っぽいというか。
なのでもしかして、袁尚は実はまだ幼子であったのでは?
若武者にされていることが多いけれど、そもそもそれ以前だったのでは?
もしかしたらもしかしてだけど、献帝みたいにただ擁立されて利用されただけだったのでは?
という説を考えて見ました。上二人と年が離れていれば袁紹も可愛がっただろうし、手元に置きたがったかもしれません。そしてエピソードの少なさは、彼自身がそれほど成長する前に三国志から退場したから。
そう考えると……いやそれにしてもやっぱり、袁家は詰んでいるな……と思った筆者でした。
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三国志ライター センのひとりごと
可愛がられていたという割に、袁尚は記録が碌にありません。意図的に省かれた、と言うよりは、そもそもエピソードが収録できるほど長い期間生きていなかった……と考えると、そちらの方がしっくり来る気がしました。
そうすると彼を担ぎ上げた周囲がより何とも言えないような存在になってしまうのですが……やはり袁紹の死が、袁家にとって本当に終焉の始まりだったんだな、と思う筆者でした。
どぼーん。
参考文献:魏書袁紹伝 後漢書袁紹伝
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