三国志で三兄弟と言うと、劉関張の義兄弟のイメージがどうしても強すぎて他が霞んでしまいますが、実は初期にもいる三兄弟、それこそが袁家三兄弟です。
とは言え物語によっては殆ど語られることのないままフェードアウトさせられてしまう哀しみを背負ったこの三兄弟。今回はその中でも、長男である袁譚についてお話したいと思います。
この記事の目次
三国志演義では全くの無能扱いの袁譚
さて、まずはちょっとだけ三国志演義での袁譚に付いて。
そもそも三国志演義では袁譚は殆ど出番がないのですが、その数ある出番での印象は「無能」「乱暴」「だから父親である袁紹から嫌われている」というとてつもなく不名誉なもの。
実際に三男である袁尚は幼い頃から顔立ちが良く、優れていたので袁紹からも可愛がられていて、袁紹は内心この三男を後継者にしようとしていた=可愛いからって長男を差し置いて袁紹は無能では?お家崩壊フラグでは?
とも言われてしまうのですが、正史の記述ではまた印象が違います。
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袁基の養子に入った袁譚
まず袁譚、後漢書によると袁紹から伯父である袁基(袁紹の実兄ではなく、従兄)の養子に出されました。この袁基は安国亭侯の役職を父親である袁逢から受け継いでいました。
つまり、そもそも袁紹の後継者から既に袁譚は外されていたのです。どういった理由で袁紹が息子を、それも長男を養子に出したかは分かりませんが、もしかしたら実子に四世三公の名族の、後継者の位置に付かせたかった可能性はありますね。
まあ、厄介払いしたかった可能性も大きいのですが……。
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評価が分かれている袁譚
そして青洲を治めることになった袁譚ですが、様子は芳しくありません。
「優れた人物がいても上手く用いられず、青洲統治はできていなかった」とかこき下ろされています。
ただそれ以前に「青洲刺史・田楷を打ち破った」
「孔融にも勝利(逃げられた)」
「年長で優しくて慎み深い人柄」
とも書かれていて、決して無能でも粗野で野蛮な性格でもない袁譚の姿もまた記録されているのが面白い所でしょう。
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官渡の戦いにも参加していた袁譚
因みに袁紹軍の大軍が曹操軍と戦うことになった、有名な官渡の戦い。やたら父親に嫌われていたとか後継者にしたくなかったみたいな言われ方をする袁譚ですが、何気にこの戦にも参加。
また劉備を受け入れたのは、嘗て劉備が袁譚を茂才に推薦したという縁があり、これで袁譚は劉備を受け入れ、袁紹も劉備を丁寧に対応したともあり、自らの後継者としては考えていなくても、そこまで粗雑に扱っていた様子も見受けられません。
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郭図や辛評に担がれ袁尚と戦う袁譚
そして袁紹没後から始まる、家臣も参加しての後継者争い。既に別の袁家の後継者になっているなら袁譚は争わなくても良いはずですが……欲が出たか、乗せられたか、そもそも元から弟が気に入らなかったか……?
ただしここで袁譚を後継者に推したのは郭図や辛評。一説には彼らと仲が悪かった審配が袁紹の遺言を捏造して袁尚後継者を押したという説もあり、どうにも後継者争いに配下が出しゃばる袁家。さあ次男を置いてきぼりにして袁家三兄弟の後継者争いの始まりです。
まあこの後継者争い、一番得をしたのは曹操だった訳ですが。
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