諸葛亮は軍師中郎将から始まり最終的には丞相や録尚書事、益州牧と様々な官職に就きました。
これは劉備勢力が拡大するにつれて諸葛亮が担う役割も多くなっていったことを示していますが、実際にどんなことをしていたのか分からない人もいると思います。
そこで今回は諸葛亮が仕官した直後から五丈原で陣没するまでに就いた官職と担っていた役割を解説していきます。
諸葛亮、仕官直後の役割
諸葛亮が劉備に使えるようになったのは208年からですが、この時点では劉備自身が流浪の身であったために諸葛亮には役職がありませんでした。ただ、孫呉との同盟や赤壁での戦などに関して、劉備に助言をする顧問的な立場にいたのではないかと推測します。
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209年、軍師中郎将
赤壁の戦いが終わり荊州南群の平定に際して、諸葛亮は軍師中郎将へと昇進しています。軍師中郎将は劉備が設置したオリジナルの官位で、諸葛亮以外だと龐統が任命されました。
もともとは後漢の官位であった中郎将の派生で、地位は高くありません。後漢時代の中郎将は近衛軍の指揮官でしたが、三国志時代には各将軍が任命する補佐的な立場となっています。
頭に「軍師」と付いているのは実際の職務に沿った名前が付与されたものと考えられるので、軍師として政治や軍事のアドバイスをしつつ、一部兵権が与えられたということです。また、上記に加えて諸葛亮は零陵、桂陽、長沙の統治を任されていて、そこで徴収した税は軍資として使用されました。
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214年、軍師将軍
劉備が成都を攻略した後の諸葛亮は軍師将軍へと昇進します。これは中郎将から雑号将軍になったということで、「軍師」の役割も引き継いだ状態で兵権が大きくなったイメージです。
また、この頃から諸葛亮は董和とともに左将軍府で働き始めています。正史では「署左将軍府事」という名称で登場しますが、これが正式な役職を表しているのか、府で政務を行うことなのか意見が分かれるところです。
魏や呉では設置された形跡がなく、劉備勢力独自の役割のようですが、後に諸葛亮が北伐する際にも留丞相府事を設置して不在時の政務を任せています。
実際にどんなことをしていたかですが、諸葛亮伝には劉備不在時に成都を守り、食事と兵士を満たしたとあるので、兵站維持や兵士の増援なども行っていたようです。
実際に楊洪伝には劉備が増援の兵を送ってほしいと諸葛亮に依頼し、その是非を楊洪と相談していた旨が記載されています。また、楊洪の返答に満足した諸葛亮は楊洪を法正不在時の蜀郡太守とするよう上表し、楊洪が十分に役割を果たしたことから後に正式な太守となっています。
このことから、左将軍府では徴兵や兵站維持、人事などを統括していたということになり、諸葛亮はそれを補佐する役割をもっていたのでしょう。
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219年頃、左将軍大司馬府事
時期は定かではありませんが、後に諸葛亮は董和とともに大司馬府事となりました。大司馬は劉備が漢中王となった際に任命された役職なので、恐らく219年以降に諸葛亮は大司馬府で働き始めたと考えられます。
大司馬は軍事の最高職で、大将軍よりも上の立場です。ただ、職務としては左将軍府とほぼ変わらなかったと思うので、徴兵や補給など軍事に関連する仕事を担っていたと予想できます。
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221年、丞相・録尚書事・司隷校尉
劉備が皇帝として即位すると諸葛亮は丞相と録尚書事に任命されました。丞相は君主(皇帝)の補佐をする役割であり行政権を持ちます。録尚書事は上奏文の取次などを行う尚書省(尚書台)の最高位です。
尚書は上奏文に目を通して、それを皇帝に取り次ぐかどうかを判断する権限を持っていたので、丞相の進言であっても通さずにもみ消すこともできます。そのトップに諸葛亮がなるということは、諸葛亮の意見は絶対であるということです。
また、張飛が就いていた司隷校尉という官職もその死後に諸葛亮へと渡っています。司隷校尉は首都近辺の警護や行政の執行、さらに不正を取り締まる役割を持っていました。他にも仮節という軍律違反者を処刑する権限が与えられているので、諸葛亮は政権内の大半の権利を有していたと言えるでしょう。
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223年、益州牧
劉禅が皇帝として即位すると諸葛亮は益州牧に任命されます。州牧は地方の行政権の他に反乱を鎮圧するための軍権も有していました。
これによって諸葛亮は政治の意思決定から執行、法を犯したものを裁く権利、地方官および中央政府の人事権、軍権と国家の統治に必要な権限をほぼ全て持ったということです。途中、第一次北伐での失敗を受けて、一時的に降格していますが実質的な権限は変わっていません。
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三国志ライターTKのひとりごと
今回は諸葛亮の役割をまとめてみましたが、一人国家と言っても過言ではないくらい全てのことを一手に引き受けています。結果的にこれが後進の育成を遅らせてしまい、最終的に人材不足が深刻化して国の弱体化を招いてしまいました。
ただ、法によって公平な国家運営を目指すには諸葛亮の厳正な判断が不可欠でしたし、それがなければ蜀漢は途中で内部分裂などを起こして崩壊していたかもしれないので、いずれにしても選択肢はなかったのかもしれません。
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