全盛期の董卓には呂布がいたように、 その呂布が君主になった日には陳宮がいたように、 「微妙な君主」であっても、強力な部下を抱えている間は、意外に安泰なことがあります。
「微妙な君主」と「強力な部下」の組み合わせといえば、袁術と孫策の関係も典型的ですよね? ・・・と思いきや。 「え?何の話?」という声が聞こえてきそうな?
孫策というのはもちろん、かの孫権の兄、小覇王の孫策です。 その孫策が、一時期、「微妙な君主」筆頭の袁術の下にいたこと、忘れている方も多いのでは?
そこで今回は、袁術と孫策の不思議な関係をおさらいした上で、 「もし袁術が孫策をうまく手放さずにいたら、三国志の歴史はどうなったか?」のイフ展開を考えてみましょう!
この記事の目次
実は袁術のところでお世話になっていた若き日の孫策!
まずは『正史三国志』に従って、袁術と孫策の関係をおさらいしましょう。
もとを辿れば、孫策の父親にあたる孫堅が、袁術の保護下にいたことが縁の始まり。 「え?袁術って孫堅よりも偉い人なの?」と思った方、よく思い出してください。
袁術は、かの袁紹と同じく、後漢王朝における名門の袁家の一翼であり、 反董卓連合軍の中心人物の一人でした。 後漢王朝の常識でいえばめちゃくちゃ偉い人です。
乱世の当初の段階では、袁術は曹操なんぞよりも遥かに天下に近い人でした。 そんな袁術の庇護下で働いていた孫堅が急死すると、その息子の孫策がたちまち才能を発揮し、各地の合戦で成果を挙げるようになるのです。
タダで手に入れた孫策に見限られてしまった袁術の奇行!
袁術にとってみれば、タダで超有能な若い武将が配下に現れたようなもの。 これは凄い!いろいろと面倒を見てやって、ゆくゆくは自分の片腕にすれば我が国は安泰! ・・・となっていればスッキリしたのですが、早くも、話はおかしくなります。
せっかく孫策が大活躍しているのに、君主の袁術は、孫策が奪った土地を自分がえこひいきしている家臣にどんどん与えてしまい、孫策への論功行賞は後回しにしていた模様です。
そして有名な「皇帝僭称」事件。 袁術はいきなり「仲」という国を立ち上げ、勝手に「皇帝」を名乗り始めます。
これに対して孫策は、「袁術様、それは正直ビミョー・・・」と諌める手紙を送っていたそうです。 ともあれ諌言をしているということは、不遇な扱いを受けつつも、 孫策は途中まではマジメに「袁術様を支えよう」とがんばる気持ちはあったのかも!
しかしあまりの袁術のひどさに、とうとう孫策は自前の兵力を率いて独立。 以降、孫策は袁術を完全に無視して江東に自分の勢力圏を作ってしまいます。
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袁術は孫策のマウントをとっている「顔つき」をしているだけでよかった!
ではここでイフ展開を考えましょう。袁術が、孫策という武将を手放さずに済む方法はあったのでしょうか?ともあれ、そんなに難しい展開をひねり出す必要もありませんよね。
皆さんが、「自分が袁術の立場だったら?」と考えたら、もうやることは決まってますよね?
独立されて江東に大勢力を築かれる前に、袁術のほうから、「孫策よ、お前に独立した部隊を与えるから、江東を平定してきてくれんか?お前が手に入れた土地はお前に割り振ってやるから、わしの下で存分に力を発揮してみるのじゃ!」と命令しておけばよかったですよね?
袁術がそれを命じた「形」になっていたら、後日、孫策は「江東を平定できたのは袁術様が気前よく私に自由にさせてくれたからだ」と思うだろうし、袁術は「わしは孫策の能力を見込んで成長させてやったんじゃぞ」とマウントを取っている「顔つき」ができましたよね?
袁術本人は何もしていないのに!
かつ、このシナリオならば、他の群雄達も、「袁術に手を出すと、江東で楽しそうに自分の勢力を築いている孫策が、恩義ある主人を守るために戻ってくる!」と恐れ、袁術の謎国家「仲」はもっと長続きしたかもしれません。
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ポイントは決して「孫策(および孫権)の邪魔をしないこと」!
もちろんこのイフ展開には危険もあります。たとえ袁術の命令というタテマエを作ったとはいえ、江東の小覇王になった後の孫策(および後継者の孫権)が、袁術を裏切ってしまえば、おしまいです。
ただし、これについてひとつ、袁術には有効な手があります。「皇帝」という肩書きだけを持って、自ら進んで「孫策の傀儡」になってしまうことです。そうです!同時代の曹操には献帝という傀儡皇帝がいましたよね。
袁術はそれを引き合いに出して、「わしがお前にとっての献帝になってやろう。皇帝の印鑑が必要な時にはわしが玉璽を使うから遠慮なく言ってくれ。他はお前が好きなようにやってくれていいから」と孫策の前にコロリとお腹を見せてしまうのです。
献帝に比べていかがわしい「皇帝」ではありますが、孫策にしてみれば「曹操に対抗するためのハッタリ看板」と思えば、なるほど使い道があります。この場合、三国志は、魏呉蜀ではなく魏仲蜀の鼎立となったことでしょう!
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身も蓋もない結論は「そんな賢い判断ができなかったのが袁術・・・」?
しかし、皆さんお気づきかもしれませんが、このシナリオは大きな弱点があります。「史実であれだけ愚かなふるまいで自滅した男が袁術。彼が傀儡皇帝にお利口に収まっていられるだろうか?」ですよね。はい、確かに。それができる男ならば、あれだけ恵まれていた出自をもっと有効活用して、もう少し群雄達と渡り合っていた筈ですし。
せっかく考えてあげた袁術延命シナリオですが、「そんな賢い生き方ができる男なら、それはもう、キャラとして、袁術ではない!」という残酷な三国志ファンの声が聴こえてきそうです。
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三国志ライターYASHIROの独り言
まぁ、確かに、孫策や孫権の傀儡として袁術が長生きをしたところで、三国志の物語的には、別に、おもしろくもおかしくもないシナリオですしね。袁術はやはり「序盤のやられ役」として見事に群雄の食い物にされてこそ、三国志ファンの記憶に残る人物なのではないか?
そんな残酷な結論に至ってしまいましたが、皆さんはいかがでしょうか?
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