猛将・智将ひしめく曹操麾下にあって、特に目覚ましい功績を挙げた張遼・楽進・于禁・張郃・と並び、「魏の5大将軍」としてたたえられている徐晃。政治的活動をほとんどしなかった根っからの武人であり、宋時代の兵法家張預から、中国の「名将べスト100」にも選出された、徐晃の輝かしい戦績と残された逸話を紹介します。
徐晃「おいおい!俺様は負けてないってば!」
三国史最強クラスの武将といえば、呂布や関羽などの名前が浮かびますが、両者とも戦いに負けた後捕縛・処刑されています。
徐晃も孟達に弓で射殺されたことになっていますが、それは小説「演義」によるフィクション、真実ではありません。
正史によると曹操の孫にあたる曹叡の代になっても、呉の諸葛瑾を撃退するなど現役バリバリで活躍し、227に年病没するまで個人的な作戦ミスで戦に敗れたことがない、「不敗将軍」だったのです。
実は名軍師?徐晃の優れた洞察力を示す逸話
呂布の配下として一時曹操を追い詰めた張遼や、袁紹の元ですでに武名をとどろかせていた張郃同様、李傕の臣である張奉という賊上がりの荒くれものに、徐晃は元々付き従っていました。張奉自身に何ら才覚はありませんでしたが、長安を日に日に荒廃させる李傕と郭汜の争いに嫌気が差し、「洛陽へ戻りたい」と願っていた皇帝・劉協を守り、見事洛陽への脱出を成功させ、武官の最高位に近い「車騎将軍」へ登り詰めます。この時、相談役として「皇帝脱出の手助けをすべき!」と、張奉に進言したのが誰あろう徐晃だったのです。
しかし、張奉はやはり小物にすぎず、劉協脱出に協力した董承らと権力争いを始め、隙に乗じた曹操にあっさり敗北、袁術を頼って逃亡することになります。徐晃は曹操の器が天下に届くものだと確信していたため、事前に強く帰順を進言、一時同意を得ていたものの張奉はすぐに心変わり。
「こりゃダメだ」と確信した彼はこの時を境に曹操へ鞍替え、その後の活躍へとつながっていくのです。誰も手を貸すものがいなかった、劉協の洛陽脱出を進言したことや、数段張奉より位階が低い曹操への帰順を勧めたこの逸話1つとっても、徐晃は武芸一辺倒だったのではなく並外れた洞察力を併せ持つ、天下の名将であったことがうかがえます。
徐晃最大の見せ場!関羽を退けた「襄樊の戦い」
曹操という終生の主を得た徐晃は、水を得た魚のごとく中国全土を駆け回り、夏侯淵・張郃と共に韓遂・馬超などの西涼勢力や、入蜀し漢中へ勢力を拡大しつつあった劉備と対峙し、目覚ましい戦果を挙げていきます。
列挙するときりがないほどの功績を残している徐晃ですが、そんな中でも特筆すべきなのは、関羽と繰り広げた「四家の戦い」でしょう。219年、漢中戦線の司令官であった夏侯淵が定軍山の戦いで討ち死に、漢中の諸軍は撤退を余儀なくされます。
好機と見た関羽が北上し襄陽・樊城を包囲したため、徐晃は曹操の命により曹仁を救援すべく、宛に駐屯することになりました。しかし、先に救援へ向かっていた于禁は敗れ捕虜となり、猛将龐徳に至っては関羽に討ち取られる始末。
一方、徐晃陣営はどうかといえば当時任されていた軍勢には新参者が多く、この不利な情勢を独力で打破するのは困難と見た彼は、曹操からの援軍を待ち合流したうえで、近くの城を占拠していた賊を壊滅させ足場を確保、ジワリジワリと慎重に関羽との距離を詰めました。
関羽はこの時囲頭と四家に屯所を築き、自身は囲頭で陣を張って待ち構えていたものの、徐晃は意表をついて四家を攻め、壊滅寸前に追い込みます。慌てた関羽は自ら兵を率いて救援に向かいましたが、詰め将棋のように準備をしていた徐晃にボロ負け、あまりの酷いありさまに、自ら川へ身を投げる兵まで出たほどだったのだとか。
この素晴らしい徐晃の戦いっぷりを聞いた曹操は、「これほど長い距離を進軍し、敵の包囲網を破った将は初めてだ。」と大絶賛。徐晃の軍が本営・摩陂に辿り着くと曹操は7里先まで出向き、言葉の限りを尽くして称え、夜を徹して大宴会を催し労をねぎらったと言います。
三国志ライター 酒仙タヌキの独り言
マメな斥候を怠らず情報収集を重視し、敗戦時の対策練ったうえで戦いを進める堅実派の徐晃。その一方で、チャンスと見るや配下に食事の暇も与えないほど、猛烈な追撃を行うこともあったそうです。
お世辞大魔王曹操から、「孫武に勝る」とまでおだてられた徐晃は、曹丕の代には首都防衛を司る最高位「右将軍」に登り詰め、死後は曹操の廟へ「功臣20人」の1人として祭られました、諡号は壮侯。
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