[衝撃]曹丕の仕事って?魏の初代皇帝の知られざる一面!

2024年3月2日


 

皇帝に就任した曹丕

 

曹丕(そうひ)は皇室の力を盤石にする一方で、国内の政治を安定にさせるように努めます。彼は敵討ちなどを禁止して、社会の倫理や秩序を維持する法律を制定。また他人を蹴落とすための密告が天下に流行っておりましたが、曹丕は密告を行う事そのものを禁止する法律を天下に布告します。

 

三国志のモブ 反乱

 

この密告制度の禁止は例外もあり、国家を転覆させる反逆罪などが行われそうな場合はすぐに密告するようにと指示を与えております。そして父・曹操(そうそう)と同じく彼も民衆に対して邪教を禁止させ、刑罰の軽減を布告するなど様々な政策を行い社会秩序の安定を図ります。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


【誤植・誤字脱字の報告】 バナー 誤字脱字 報告 330 x 100



【レポート・論文で引用する場合の留意事項】 はじめての三国志レポート引用について



新たな人材登用法を制定する

陳羣 九品官人法の書物

 

曹丕は国内の政治の安定に力を尽くしていく一方で、新しい人材登用法を採用します。この人材登用法を考えたのは曹丕ではなく、魏の臣下である陳羣(ちんぐん)という文官が考えた人材登用方法です。この登用方法は完了を一品~九品に分けて制定します。

 

 

新たな人材登用法の内容とは

曹丕 残忍

 

そして郡ごとに人材を採用する採用官を置き、この採用官が郡における優秀な人物達に一品~九品までの評価を与えた後、官へ仕えさせます。評価を貰って官に仕える事になる人物は、評価から四階級落とした官位を貰って務める事になります。一例として採用前に最高の点数である一品の位を貰って官へ仕える事になります。官位を貰う際には四階級落とした官位がもらえますので、一品の評価を貰った人物は五品の役職を貰う事になります。

 

九品官人法を作った陳羣

 

 

またこの採用方法は一品~九品までの点数を貰った後に官へ仕える事になりますが、最大で登れる官位は最初に貰った点数までと決まっております。先ほどの例で言いますと一品の評価を貰った人物は、最終的に一品の官位にしか上る事ができません。この人材登用法を陳羣は曹丕に提案すると彼は大いにこの採用法を褒めて、この人材登用法を「九品官人法(きゅうひんかんじんほう)」と名付け、曹操が亡くなるとすぐにこの登用法を法律に組み込んでいきます。

 

 

なぜ曹丕は新しい人材登用法を制定したのか

曹丕

 

 

曹丕はなぜこの人材登用方法を取り入れる事にしたのでしょうか。その原因は漢王朝の人材登用法では優秀な人材が集まってこない可能性が、あった事に起因しております。漢の人材登用方法は地方豪族たちが力を持っていたこともあり、彼らの息のかかった人物のみが官僚として推挙されておりました。

 

 

知貢挙(科挙に合格した人)

 

 

 

この中には優秀な人物もおりましたが、大半は豪族達が朝廷での人脈を広げる為の人材を官僚として送り込んでいた為、優秀な人材があんまりいませんでした。そのため陳羣はこの漢王朝の人材登用方法を見直し、実力を持った人材が朝廷に仕えられるようにすることで、国家の力を向上させようと考えた結果、この人材登用方法が生まれる事になります。このように新たな人材登用方法や法律などを制定した結果、魏の国は大いに社会が安定することになり、国の力は他の二国を圧倒するほどの力を蓄える事になります。

 

 

 

呉の降伏を受け入れるも…

関羽 死

 

 

こうして曹丕は様々な政策を制定し、魏の国内の安定に大いに貢献します。しかし戦においてはあまり活躍することはできませんでした。劉備は呉の裏切りによって荊州が奪われた事と関羽が亡くなった事に激怒し、孫権討伐へ出陣します。

 

逃亡する兵士 三国志ver

 

孫権は劉備が出陣してくると魏に使者を送って「呉は魏に降伏します。降伏したので攻撃しないようにお願いします。」と使者を送ります。魏の群臣達は「孫権の降伏は蜀に攻撃を受けている間だけのもので、この機に乗じて呉へ攻撃を仕掛けるべきだ」と進言します。すると曹丕は「いや。降伏を希望して来る者を受け入れる事を拒否すれば、今後魏へ降伏してくる者がいなくなるだろう。そのため今回、私は呉の降伏を受け入れる」と群臣の反対を押し切って呉の降伏を受け入れます。

 

 

 

孫呉が独立する

孫権

 

曹丕は呉が降伏した事で、孫権へ「君の所の息子を見たいから、魏の都に連れてきてくれないか。」と使者を送ります。すると孫権は「いや。私の跡取りだからです。それはできません。」と断ります。曹丕はめげずに何度も使者を送りますが、孫権は曹丕の申し出をすべて断った挙句、蜀と同盟を再度結び、魏から独立を果たします。曹丕は大いに激怒し、孫権討伐へ自ら出陣します。

 

 

 

孫呉討伐の軍勢を率いて進軍するも…

張遼・楽進・李典

 

 

曹丕(そうひ)は孫権を討伐するため、進軍を開始します。彼は3つの経路に分けて進軍させ、洞口(とうこう)と呼ばれる地点へは、合肥(がっぴ)の英雄である張遼(ちょうりょう)曹休(そうきゅう)らを派遣します。

 

曹仁

 

 

濡須江(じゅしゅこう)へは樊城攻防戦で活躍し、曹操軍では1番の実力を持った曹仁(そうじん)・曹泰(そうたい)らを出陣させます。そして荊州方面へは歴戦の将軍である張郃(ちょうこう)や負け知らずの徐晃(じょこう)らを派遣し、曹魏のオールスターと言える将軍達を出陣させます。しかしこの戦いは洞口と濡須江方面に出陣させた魏軍は、暴風雨が発生した事が原因で、呉へ攻撃を行う事ができませんでした。

 

 

荊州方面の魏軍も撤退する

疫病 村

 

荊州方面に侵攻した魏軍も江陵城に籠った呉軍の粘り強い防戦で、陥落させることができませんでした。またこの江陵攻防戦の途中で、魏軍に疫病が発生。また長江が暴風雨によって増水した事も原因で、曹丕は荊州方面の魏軍にも撤退を命じます。

 

憤死する麋竺(モブ)

 

 

この時呉軍は撤退する魏軍へ猛攻をかけ、魏軍の将軍である曹泰などが討ち死にしてしまいます。荊州方面侵攻軍の司令官であった曹仁は、この敗戦で大きなショックを受けて自殺。結局この戦いでは大きな戦果を挙げる事ができずに失敗に終わってしまいます。

 

 

再度呉討伐へ出陣

ツンデレ曹丕

 

 

曹丕は孫権討伐に失敗すると大いに悔しがり、再び出陣することを決意します。彼はすぐに出陣することはせずに、まず自分が乗る大型の船を建造することにします。この船は舳先に龍の彫り物を飾った龍船(りゅうせん)と言われる、かっこいい船を建造した後、自ら軍勢を率いて出陣しますが、しかしこの出陣も失敗に終わってしまいます。

 

徐盛(じょせい)呉の将軍

 

 

今回の戦の原因は呉の将軍である徐盛(じょせい)が意外な作戦に出たことが原因です。徐盛は曹丕が出陣した事を知ると、石頭城(せきとうじょう)と呼ばれる地に、大きくて広い偽城を作ります。この偽城を見た曹丕は大いにビビッて、軍を呉へ侵攻することにためらいを覚えます。曹丕が石頭城に攻撃を仕掛けるか迷っている間に、再び長江の水かさが増してきたため彼は再び退却することになります。

 

 

3度目の正直

曹丕

 

曹丕は2度孫権討伐に失敗するも、次こそは必ず討伐してやると意気込んで、再び呉へ出陣します。過去2回の経験から夏場に出陣すると、長江の水が増してきて大変な事になると感じ、3回目の孫権討伐は冬場に出陣します。しかし冬場に出陣し波は荒れませんでしたが、長江へ至る河がカッチカチに凍ってしまい、船が長江へ向かう事が出来なくなってしまいます。

 

この状況を見た曹丕は大きなため息をついて「はぁ。呉を討伐するなと天が俺に命じているのか」とこぼして撤退していきます。都合3回にわたって呉討伐の軍勢を催すも一度も戦果を挙げる事ができずに、引き返してしまった曹丕でした。

 

 

曹丕死す

曹丕

 

曹丕はこうして何事も得ないまま、都に帰ってくると突然病に襲われてしまいます。そして彼の病は治る事が無く突然亡くなってしまいます。まだ40歳という若さでの突然の死でした。彼は亡くなる前に自分の後継者を曹叡(そうえい)に決め、司馬懿(しばい)陳羣曹真(そうしん)・曹休らを枕元に呼んで、曹叡の事を託します。

 

歴代皇帝の墓を暴こうとする韓遂の兵士

 

また曹丕は遺言を残しており父曹操と同じく「墓には金銀財宝や墓に装飾品などつける必要はない。その理由は古今東西、皇帝や王の墓が荒らされないことなどないためである。」と明快な理由をつけており、父曹操に似て非常に合理主義的な面があった証左であったと思います。こうして魏は初代皇帝が亡くなった事で、次世代に移る事になります。

 

 

三国志ライター黒田廉の独り言

黒田廉

 

魏の初代皇帝曹丕をご紹介しました。彼が皇帝にいた時間はたったの7年と非常に短い時間であったため彼が行った政策はじっくりと成果を出すことができませんでした。もし彼が長生きをして、魏の基盤をしっかりと整える事が出来れば、蜀も北伐に赴くことができず、呉も魏へ攻撃することはできなかったでしょう。

 

そして司馬家の王朝である晋王朝は生まれずに終わったかもしれません。この曹丕が早く亡くなった事が、魏の王朝にとって滅びへの一歩となってしまいます。「今回の三国志のお話はこれでおしまいにゃ。次回もまたはじめての三国志でお会いしましょう。それじゃまたにゃ~」

 

▼こちらもどうぞ

曹丕(そうひ)得意の詩で蜀の調理法を斬る

 

 

  • この記事を書いた人
  • 最新記事
黒田廉(くろだれん)

黒田廉(くろだれん)

三國志が大好きです。オススメのマンガは曹操を描いた蒼天航路がオススメです。三國志の小説のオススメは宮城谷昌光氏が書いた三國志です。好きな食べ物はマグロ、ぶり、アジが大好きな猫です。

-外部配信