晋を建国した司馬炎によって宣帝と諡された司馬懿は、三国志の影の主役といってもいいでしょう。
諸葛孔明の好敵手として登場し、トップクラスの知略の持ち主と考えられている司馬懿。その凄さはいったいどこにあるのでしょうか?
あの曹操に警戒された
司馬懿は名門の出身で、「司馬八達」と呼ばれた八人兄弟の中でも最も秀でていたといわれています。最初、司空となった曹操に召し出されますが、病気を理由に辞退しました。未だ袁紹も健在で、河北の脅威が残っている状況でしたので、司馬懿としては曹操の未来に不安を感じたのかもしれません。
しびれをきらせた曹操に仕えるようになったのは、曹操が丞相となった208年のことになります。前年に袁氏は完全に滅びていました。曹操は仕官を断るようならば殺せと使者に命じ、強引に司馬懿を招聘しています。曹操は7年越しで、ようやく司馬懿を家臣に加えることができたわけです。
しかし太子の曹丕に対しては、「司馬懿はいつまでも家臣でいるような男ではない」と警告しています。司馬懿を使いこなせるのは、俺だけだぞってことですね。
あの関羽を倒す策を進言
司馬懿が注目を集めることになるのは、関羽が北進し、曹操の領土に侵攻してきた219年のことになります。曹仁の守る樊城は包囲され、名将・于禁は捕虜となり、龐徳は処刑されました。曹操は慌てて遷都すら考えたほどだったのです。
司馬懿はこの時、孫権に関羽の背後を襲わせることを曹操に献策します。この策は見事にはまり、関羽は孫権に敗北して処刑され、曹操は危機を回避することができたのです。司馬懿の策がなければ、関羽は荊州北部を占拠し、許都に攻め込んでいたかもしれません。
あの孟達を奇襲して討ち倒す
劉備亡き後、諸葛孔明が先頭に立って北伐が始まりますが、最大のチャンスはなんといっても228年の第1次北伐です。
諸葛孔明は漢中から侵攻するだけでなく、新城太守である孟達の内応の約束も取り付けていました。これが成功したら、魏の防備は手薄になり、蜀は一気に魏領に攻め込めたはずでした。
これを阻止したのも司馬懿です。司馬懿は一ヶ月かかる1200里の道のりをわずか八日で駆け抜け、電光石火の攻撃で、準備の整っていない孟達を討ち果たしました。こうして荊州への道を閉ざされた諸葛孔明は、漢中から北進する選択しかとれなくなったのです。
あの諸葛孔明の侵攻を食い止める
さらに司馬懿は、天才軍師・諸葛孔明の侵攻を守りに徹して食い止めます。ちなみに「三国志演義」では劉備に代わる主役・諸葛孔明に局地戦で何度も敗北していますが、正史では持久戦を選んで勝利しています(追撃して張郃が討たれていますが)。
諸葛孔明と対峙した際も、反乱を起こした公孫淵に対しても、大将軍となった曹爽との政争時も、常に辛抱強くチャンスが訪れるのを待っています。
女性の衣服を送られて挑発される時もありました。警戒を解くために、ボケた老人を演じきったこともありました。「鳴かぬなら鳴くまで待とう時鳥」の我慢強さこそが、司馬懿の真骨頂ではないでしょうか
三国志ライターろひもとの独り言
孟達を奇襲した際の司馬懿の行軍は、まさに「豊臣秀吉」の「中国大返し」。公孫淵を倒した後の虐殺行為は、まさに「織田信長」の「比叡山焼き討ち」。そしてひたすら辛抱強くチャンスを待つ姿勢は、「徳川家康」に通じます。
なんと、司馬懿は、日本の戦国時代の三英雄の要素を兼ね備えているわけです。それは凄い!それはさすがに曹操も警戒する!諸葛孔明が勝てなくても仕方ない!でもなぜか、司馬懿って人気があまりないんですよね。凄さが伝わっていないからなのか、あまりにも凄すぎるからなのか……これだけ凄いのに、人気がないってことも凄いのではないでしょうか。
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