さて、今日のテーマは三国志の英雄の一人、許褚とその死因。いきなりネタバレになりますが、三国志に許褚の死因とされるような大きな記述がある訳ではありません。
しかしその許褚の死因を調べてみようと見ていくと、許褚という武将がどれだけ深く、信頼され、寵愛されていたのかが分かるようになっていて、改めて許褚伝……深い、と思った次第。
ここではそれをまとめつつ、更に死因として考えられるものを同時に考察していきたいと思います。許褚の魅力を再確認し、曹操や曹丕の気持ちを理解してみてるのはどうですか?
この記事の目次
許褚の生涯、家族、更に曹操との出会い
許褚は後漢末期から三国時代の英雄の一人であり、その字は仲康。この字から察する人もいるでしょうが、兄が一人おります。後漢末期は国も荒れに荒れ、酷い騒乱の時代が流れていきました。そんな中で許褚は若者や一族数千家を集めて砦を固め、兄と共に賊に対抗していました。
武勇に優れた許褚ですが、この際に投石で砦内部から抵抗させたり、余りに賊が多いために一時的に和平を結ぶなど、軍略や統率の面でも才能を輝かせています。この和平の際に許褚が大きな牛の尾を引きずったのをみた賊徒は許褚を恐れ、それ以降この噂が広まって許褚は賊たちに畏れられるようになりました。
その後、曹操が淮・汝の地方を支配すると、許褚は軍勢を挙げて曹操に帰服しました。曹操は許褚の勇壮な佇まいと雰囲気を殊の外気に入ったのか、その日の内に都尉となり、許褚に従っていた者たちは近衛兵として取り立てられるようになります。
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許褚の鋭い直観力が生んだ三国志エピソード
そして曹操の戦いに従軍して順当に出世していく許褚ですが、ここで許褚の類まれなるエピソードをご紹介。
それは曹操と袁紹との官途の戦いの際のこと。この際に、曹操の配下に以前から謀叛を企てていた者たちがいました。しかし曹操の傍には常に許褚がいて、事を起こせません。そこで許褚が休みの日に決行を決めたのですが……事を起こすために曹操の帳に入ると、そこには許褚の姿が!
なんと許褚、宿舎に戻ったとこで胸騒ぎがしたからと引き換えしていたのです。顔色を変えた彼らに許褚は謀反を悟り、すぐさま彼らを打ち倒したのでした。この一件で曹操はより一層許褚を信愛するようになり、常に同行させて話さないようになったと言います。ここから、曹操の親衛隊としての許褚の活躍が始まることになるのですね。
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「虎侯」の勇を広く知らしめる、馬超との一線
そして許褚の「虎」としての強さを広く知らしめることになるのが、馬超との一幕。
韓遂・馬超との潼関の戦いでは、曹操の渡河の際に馬超が曹操目掛けて兵たちに飴のように矢を浴びせかけます。許褚は曹操を船に乗せ、上ってくる兵でさえも沈没を防ぐために切り捨て、馬の鞍を掲げて曹操を矢から守りました。
果てに船頭が死ぬと自らが船を漕ぎ、見事、曹操を渡河させることに成功したのです。その後の会談の場では、曹操は許褚を連れていき、曹操を殺そうと考えていた馬超を睨み付けるだけで動けなくするなど、暗殺から見事曹操を守っています。また馬超軍との戦いでもこれを大きく破り、敵の首級を上げたことによって武衛中郎将に昇進しました。正に現代で言う最高のSP、それが許褚だったのです。
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許褚の身長、体形のお話 ゲームなどの許褚のイメージとは
さてここでちょっと話の雰囲気が変わりますが、ゲームや作品での許褚について。どうにも……ちょっと、いやかなり、真ん丸な、というか、とても体格が良い感じに描かれるのが許褚のイメージとなっていますね。それもそのはず、許褚は慎重が約184㎝、胴回りが120㎝もあったとされています。
少し調べたのですが、男性用でウエスト120となると現代では6Lサイズとなるようで……この事から「体格がよい」許褚のイメージが付いたのかもしれませんね。このため、ゲームではパワータイプの重量級キャラクターとして描かれることが多いです。
また典韋と並べるイメージもありますが、これは三国志演義で許褚と典韋が戦い、曹操が「悪来とやり合えるものがいるとは」と許褚を配下に欲しがる話がされ、この縁で曹操の両端を固める二人の姿がイメージされたのかもしれません。
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許褚の性格、そしてその最期に至るまで
因みに許褚は力が虎のように凄い、馬超が動けなくなるほどの眼力、にもかかわらず、普段はぼんやりとしていたことから「痴」とかけて「虎痴」と呼ばれており、これを許褚の名前と勘違いする者もいたそうです。それでも普段の許褚は温厚で慎み深く、無口であったと言います。
また曹操の死の際には許褚は号泣して血を吐いたというように、忠義の塊でもありました。
曹操の没後は曹丕、曹叡にも信頼されて重用されていましたが、曹叡の即位の際に牟郷侯に進封して領邑700戸となり、一子が関内侯に封ぜられるも、許褚自身はそのまま死去したと言います。許褚の最期についてはこのくらいで、特に何らかの病気や怪我などには触れられていません。そこで許褚の死因について、色々と考えてみることにしました。
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許褚の死因……大きなストレスが原因か!?
ここで考えられるのが、まずは大きなストレス。許褚は曹操の死の際に、血を吐くほどに号泣しました。これが泣きすぎ、声を上げ過ぎて喉をやられての吐血なのか……それとも、強いストレスによる潰瘍、内臓からの出血であるのか?
それについては分かりませんが、許褚はこれから恐らく6年後、226年に亡くなっています……病死であったならこれからずっと体調を崩していたにも関わらず務めを果たし続けたのかも……想像するに辛い。……といっても、許褚は曹丕が即位すると、万歳亭侯に進封され、武衛将軍に転任しし。中軍の宿衛禁兵を都督し、曹丕の側近として取り立てられました。あの曹丕にまで大いに親しまれていたというのですから……そう考えると、許褚って無口だけどコミュ力があったのでしょうか?
ともあれ、許褚の吐血に関してはこれが原因、と言い切れない所も多くあります。そこで筆者が提言したいのが許褚「老衰」説!最後にお付き合い下さい。
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許褚がどのように愛されたのか、その理由
曹丕の即位の際に、嘗て許褚が率いていた者たちも更に取り立てられ、後に武功によって将軍となり侯に封ぜられた者は数十人に、また都尉、校尉となった者は100人余りに上り、皆が剣術家であったといわれ、許褚が統率力や人を見る目にも優れていたことが分かります。
その一方で、曹仁と宮殿の外で出会った時に会話に誘われてつれなく断ったために曹仁が怒ったという話もあります。この際に許褚は「彼は王族の重鎮といえども外の諸侯。私のような内の臣下の端くれが、部屋に入ってどんなことを話せるでしょうか」と答えました。
これを聞いた曹操はより許褚を親愛するようになり、昇進させたというのですが……中々できない対応ですね。主のプライベートな話は、どんな相手であっても話さない、それが例え自分の非礼とされても、決して。また主君に重く寵愛されながら、それを驕ることなく対応する許褚は、曹操が傍に置いて信頼するに足る存在だったのでしょう。同時に許褚も、その主の信頼にどこまでも答えました。
曹操が亡くなり、その子である曹丕も亡くなった。
許褚はやるべきことを全うしたのです。全てを見届けたと、許褚自身も判断したのではないでしょうか。そう思った時、許褚は張りつめた仕事から己自身をやっと解放できたのではないでしょうか。ふとそんなことを考えると、ある意味、許褚は安らかに眠れたのではないかなと……それこそが許褚の死因ではないかと、思う筆者でした。
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三国志ライター センのひとりごと
因みに裴松之先生は「許褚の功は典韋に勝るものがある!!それなのに典韋が曹操の廟庭に功臣として祭られたのに、許褚が祭られてないのはおかしいだろ!!意味不!!!!」と激しく許褚の弁護(?)行っています。
また許褚の熱烈なファンとして西晋の陳安が、洛陽で学んだ際に許褚伝に感銘を受けて、自らの字を虎侯とするというエピソードもありますね。どこまでも、愚直に己の仕事を全うした許褚の生涯、それを見ているともっと評価されるべき……とも思ってしまいそうになりますが、そんな許褚だからこそ。
最期は安らかであれ、と願わずにはいられないのでした。どぼーん。
参考:魏書許褚伝 堯山堂外紀