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秦宓の生涯!口先プロフェッショナルの[真実]

2024年9月10日


 

三国時代の戦いというと、戦場に赴いた武将が馬に跨り、槍と剣を奮って火花を散らしながら戦うというようなイメージをお持ちの方が多いと思います。しかし、実際には交渉や詐術等、いわゆる弁舌の戦いも存在しました。

 

秦宓(しんふく)もそうした者たちの一人でした。今回は、三国時代に蜀に属した秦宓(しんふく)について御紹介します。

 

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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正史:仕官先に困る秦宓

 

蜀・秦宓伝によれば、秦宓(しんふく)は字は子勅(しちょく)であり、若くして学問に優れていました。そのため、仕官の誘いが数多く寄せられていました。しかし、秦宓(しんふく)は仮病を使い、仕官を断り続けていました。

 

彼の生年は正確なところが明らかではありませんが、後漢末期から登場していると考えられます。乱世真っ只中では、仕官するにも主君を決めかねていたのかもしれません。呂布(りょふ)のような明らかに不義な人物もいくらでもいましたので、本人が優れていただけあって仕官先には随分困ったでしょう。

 

 

正史:蜀に仕えた秦宓

 

その後、劉備(りゅうび)が益州を平定した後、広漢太守夏侯簒(かこうさん)の誘いを固辞し、劉備(りゅうび)のもとに仕えることとなりました。

 

父・関羽とともに亡くなる関平

 

劉備(りゅうび)が蜀を治め、魏との戦いを続けている中、関羽(かんう)が呉によって討ち取られてしまいます。義弟を殺され、怒り狂う劉備(りゅうび)は、呉を討とうとする旨を重臣に打ち明けました。ここで、秦宓(しんふく)は劉備(りゅうび)に反対したため、投獄されてしまいます。劉備(りゅうび)が亡くなった後、二二五年に孔明(こうめい)によって抜擢されると、別駕となり、さらに左中郎将・長水校尉に昇進するなど、頭角を示しました。大司農の時に死去しました。

 

 

演義:劉璋に仕える秦宓

 

三国志演義では正史とは異なり、秦宓(しんふく)は劉璋(りゅうしょう)に仕えていました。当時赤壁の戦いを経て勢力を延ばしていた劉備(りゅうび)は、自身の基盤となる国を得るために益州を手にすることを孔明(こうめい)に勧められていましたが、演義では仁義の人である劉備(りゅうび)は、首を縦に振りませんでした。

 

結局、劉備(りゅうび)は、劉璋(りゅうしょう)が援軍と物資の要請に対して、老兵や僅かな兵糧しか送らなかったのを口実に、益州を手にするべく進軍します。この時、馬超(ばちょう)が味方となり、彼は益州の劉璋(りゅうしょう)の城の前まで来ると、警告を発します。劉璋(りゅうしょう)は驚きのあまり、昏倒してしまいました。しかし、その後意識を取り戻すと、降伏を考えました。

 

 

演義:使者に激怒する秦宓

 

翌日、劉備(りゅうび)の使いとして、簡雍(かんよう)が訪ねてきました。簡雍(かんよう)といえば、詳細は省きますが劉備(りゅうび)の家臣の中でも変わり者として知られています。ただ、単なる変わり者ではなく、相応の知もあるため使者となったのでしょう。

 

この時、簡雍(かんよう)は、迎えに上がる劉璋(りゅうしょう)らに対して、車に乗ったまま、傲然とあたりを睨みまわしていました。それを見た、秦宓(しんふく)は大喝しました。秦宓(しんふく)「無礼者!いかに志に達したとはいえ、礼を弁えよ!」簡雍(かんよう)は慌てて車を降り、謝罪と挨拶をしました。

 

簡雍(かんよう)は、益州を手に入れた気になっていたため、礼を欠き失態を演じてしまいました。その後、益州は劉備(りゅうび)の手に渡りましたが、秦宓(しんふく)は降伏する立場であっても堂々としていました。

 

演義:劉備を漢中王に薦める孔明、秦宓達

 

曹操(そうそう)死後、曹丕(そうひ)が実権を握ると、魏は献帝(けんてい)に対して簒奪を行い、そっくりそのまま権力を奪ってしまいます。これを聞いた劉備(りゅうび)は、漢の献帝(けんてい)が滅せられたと考え、終日声をあげて泣き続けました。漢の再興のために戦っていた劉備(りゅうび)でしたが、献帝(けんてい)亡き今、漢は完全に滅んでしまったのです。

 

 

しかし、孔明(こうめい)は言います。

 

孔明(こうめい)「我が君は漢の正統な血筋です。我が君こそは、今帝位につくべき人物です。」劉備(りゅうび)「それでは、曹丕(そうひ)とやっていることは変わらないではないか。正統に引継いだ訳でもなく、無断で名乗るのは、天に唾する不義な行いでしかないぞ。」

 

この時、秦宓(しんふく)も劉備(りゅうび)が蜀の皇帝の位につくことを薦めました。その他の文武官も同様に進言しました。結局、劉備(りゅうび)は帝位を名乗ることとしました。

 

 

演義:関羽の死

 

その後、関羽(かんう)は呉との戦いでその命を落としてしまいます。怒りに震える劉備(りゅうび)は皆に言います。

 

劉備(りゅうび)「朕と関羽(かんう)、張飛(ちょうひ)との桃園の誓いは皆周知のことであると思うが、不幸にして関羽(かんう)は呉の孫権(そんけん)に殺された。もしも仇を討たねば、誓いに背くこととなる。東呉を討ってこの怨みを濯ごうと思う。」

 

それに対して、趙雲(ちょううん)が諫め、また孔明(こうめい)もこれに反対しました。仇討という『私事』と、国賊を討つという『大義』は並び立ちません。しかし、その後張飛(ちょうひ)が駆け付けて、自分達だけでも仇討をしようと申しでます。劉備(りゅうび)は張飛(ちょうひ)とともに呉を討つ決意をするのでした。

 

 

演義:劉備の怒りに触れる秦宓

 

明くる日、劉備(りゅうび)は出陣の準備をしていると、秦宓(しんふく)が奏上しました。秦宓(しんふく)「陛下は、大国の君主としての身分を捨て、私事に捉われております。どうか、今一度ご考慮くださいますよう願い上げます。」

 

劉備(りゅうび)「関羽(かんう)とは一心同体じゃ。大義を忘れる事は出来ぬ。」秦宓(しんふく)「私の申すことをお聞き届け下さらねば、返事があるやもしれません。」いるはずの無い死者からの返事が聞こえるということは即ち、劉備(りゅうび)も死者となることを意味し、諫言を聞かなければ死ぬことを暗に伝えます。それを聞くと、劉備(りゅうび)は怒ります。

 

劉備(りゅうび)「私が出陣するという時に、なぜそのような不吉な事を言う!こいつの首を切れ!」

 

 

演義:劉備に逆らって投獄されてしまう秦宓

 

しかし、秦宓(しんふく)は全くうろたえず、逆にそれを聞いて笑い始めます。

 

秦宓(しんふく)「私の命等惜しくは御座いません。ただ折角蜀の礎を築いておきながら、それが無になることが口惜しいので御座います。」周囲の者は、秦宓(しんふく)のために命乞いをしました。劉備(りゅうび)「こいつを獄中に閉じ込めよ。仇を討ちの後に始末をつける。」こうして、秦宓(しんふく)は投獄されてしまいました。

 

 

演義:孔明が助命を乞う

 

孔明(こうめい)はその話を聞くと、急いで助命を乞う上奏文をしたためました。

 

「臣は呉賊が奸計によって関羽(かんう)が亡くなったこと、悲しみのあまり忘れることはできません。しかし、この咎は呉孫権(そんけん)ではなく、魏曹操(そうそう)にあります。魏を除けば、呉は自ずから賓服するでしょう。願わくば、秦宓(しんふく)が金石の言を聞き入れて、後の事を策されることを願います。」

 

しかし、劉備(りゅうび)はこの書面を見るや地面にたたきつけ、出陣してしまいました。劉備(りゅうび)の没後、孔明(こうめい)により獄から出された彼は政務に付きました。

 

 

その後の秦宓

 

演義では、この後関羽(かんう)のことで仲違いしていた呉との和睦の話が出ます。その最中に呉の張温(ちょうおん)が蜀に赴きました。舌の立つ張温(ちょうおん)は、宴の場で秦宓(しんふく)をやり込めようとしますが、逆に秦宓(しんふく)の弁舌に言いくるめられてしまうというエピソードが入ります。彼の弁舌は相当に卓越したものだったのでしょう。

 

 

三国志ライターFMの独り言

 

秦宓(しんふく)は史実からは、非常に弁舌に立つ様子が見られます。しかし、弁舌そのものが彼の全てではなく、弁舌を持って何かをやり通そうとする信念が彼の真価だと考えられます。信念と言っても仕官が遅かった彼にはどんな目的があったのか、というところは正確には分かりません。

 

これは私の想像ですが、乱世の中で自信が世の中の為に何をするべきかを考え続けていたのではないでしょうか。そう考えると、乱世を治めるために蜀を建国しようという彼の姿が見えてきます。蜀のために劉備(りゅうび)を命がけで引き止めたことからも、物怖じせずにいたその姿からは彼の信念を感じますね。

 

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三国志は、大昔の出来事ですが、物語をいろいろな視点や切り口で見ていくと、新しくて面白い発見があるのが好きです。 人物像や対人関係、出来事、時代背景、逸話等々、古い話とはいえ、学ぶべきところはたくさんあります。 埃をかぶせておくにはもったいない、賢人たちの誇りがあります。

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