本日は呉の猛将にして名将、黄蓋のお話、そして彼の死因に至るまでをご紹介します。
黄蓋と言えば赤壁の戦いでの大活躍が有名で、どうにもその輝きに目が眩み、その他の彼の能力が今一つ知られていないのでは、と危惧しておりますが……実は、想像以上にこの武将は凄い存在なのです。彼がどう凄いかは、その死に至るまでを知ればより知ることができると思います。では、少しずつお話していきましょう。
この記事の目次
黄蓋ってどんな人物?その生い立ちと経歴
まずは黄蓋がどんな人物なのか、その生い立ちと経歴を知って頂きましょう。呉書によれば、祖先は南陽太守の黄子廉という人物だったと言います。祖父の時代に祖父の時代に零陵へ移住してくるも、父親が早くに亡くなり、苦労していたそうな。そんな中で青年・黄蓋は研鑽を積み、役人になって孝廉に推挙されました。しかし三公から招聘を受けるも、孫堅の挙兵を知るとこれに従い、荊州反乱の鎮圧や董卓討伐などに参加し、孫堅の元でその地位を上げていきます。
しかし孫堅が横死したことにより、その子、孫策に仕えることとなりますが……孫策もまた、早世することになるのは皆さんご存じでしょう。
その後は、孫堅の子であり、孫策の弟の孫権に仕えることになります。
黄蓋と関わる人物、黄蓋はどのようにして孫堅に仕えるようになったか
さて、孫堅の配下となった黄蓋ですが、どのような経緯で孫堅の下に仕えたのかは詳しく記されていません。
何気に孫堅の配下である有名な四将、程普、祖茂、韓当ですが、この中で孫堅が自分の下に見出したのは韓当だけで、その他がどのような経緯で孫堅に仕えたかは記されていないのです、残念。
ただ呉書によると孫堅は「自由でのびのびしていて、人には真似できないことをした」とあるので、そういった一種のカリスマ、とも呼ぶべき目に見えない力に惹かれたのでは、と思うと中々にロマンではないでしょうか。
またその子、孫策、そしてその後も孫権にまで仕えている辺り、黄蓋には義理堅さや真面目さも感じますし、そういうタイプの人が感じる「魅力」が孫堅にはあったのかもしれません。
またもう一人、黄蓋と関係のある人物として良く上げられる「周瑜」との関係に付いても述べていきましょう。
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三国志演義での黄蓋とその描写
三国志演義での黄蓋の話に移りますが、黄蓋は孫堅配下の猛将の一人として登場し、孫堅を良く助けるだけでなくその遺体の回収、その子、孫策のみならず、孫権まで良く尽くす老将として描かれます。特に赤壁の戦いは彼の最大の活躍の場とも言え、このエピソードが語源となったのが「苦肉の策」です。
黄蓋は周瑜に火攻めを提案、自ら曹操に投降して火計を成功させるため、周瑜と激しく口論する場を演じ、それによって棒叩きの刑に処されます。自らの身を厭わず痛ましい刑に処された様は間者によって曹操に報告され、黄蓋と周瑜の策は成功し、曹操軍は大きな打撃を受けることになりました。自らを傷つけることで敵を偽って信用させ、起死回生の策を行なったこの黄蓋の行為が、苦肉の策の語源となった。
更に曹操への追撃を行うものの、これ自体は張遼によって防がれ、落水した所を韓当が救うと言う話になっています。この一連の流れは激しく読者の心に残り、黄蓋と言えば猛将であり、時に己の身を挺することも厭わない、強くも激しい人物として評価されたのでしょう。現代の創作物でも、黄蓋と言えば猛将、というイメージが強く感じられますね。
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実際の黄蓋の活躍とは?歴史上の黄蓋
では実際の黄蓋の活躍はどうだったのでしょうか?
周瑜伝などで記載された黄蓋の活躍ですが、火攻めの提案、偽りの投降により黄蓋が赤壁の戦いで大活躍したのは事実です。ただここの苦肉の策は記録されていないので、よりドラマチックな演出として三国志演義ではこの話を挿入されたのでしょう。
しかしなんと、赤壁の戦いでこんなに活躍した黄蓋ですが、流れ矢に当たって長江に落ち「黄蓋だと分からなかったので負傷したまま厠に放置されていた」というのです!
因みに黄蓋、死にそうになっている所を声を振り絞って助けを呼んだので、それに韓当が気付いたので救い出されたという……ドラマチックはドラマチックだけど、ここで黄蓋死んでたら話のオチがひどすぎるよ!というのが呉書によって記録されております。寧ろ韓当こそ本当によくやった!赤壁の戦いのファインプレー!と言わんばかりの活躍ではないでしょうか。
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黄蓋の死因とは?どんな最期が考えられる?
さてこの「黄蓋大活躍するもその後の扱いがひど過ぎて呉の報連相を疑う」エピソードがあったのが208年。その後、黄蓋は病を経て亡くなったとされていますが、没年は不明です。ただ彼の部下は215年に亡くなった孫瑜の配下と一緒に孫皎が引き取ることになった、というので、少なくとも215年には黄蓋は亡くなっていたことが分かります。
では考えられるものとして赤壁の戦いでの扱いがひど過ぎての病状悪化……なのですが、何と赤壁の戦いの後、武陵蛮の反乱を少ない人数で鎮圧、長沙郡平定、その功績から偏将軍に昇進……と、まだまだ活躍していたことも見て取れます。
仮に孫堅と同年代と考えると黄蓋は既に60過ぎ、苛烈な戦いに身を置いていたこともあり、それによる病死……と考えるのが黄蓋の死因の定説と言えますが……これ病死だったら、ちょっとすごいな?と思ったのが筆者です。それに付いてちょっとお話ししましょう。
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孫家三代に仕えた黄蓋の凄さ、だいぶ凄いぞ!
さて、思い出して欲しいのが孫堅、孫策、そして孫権と、孫家の目まぐるしく変わる当主たちに仕え続けたのが黄蓋だということ。もちろんこれに対して忠義の深さや生来の真面目さなど色々と称える部分はありますが、孫家は赤壁の戦いという最大のピンチを乗り越えて尚、黄蓋は孫権の元で活躍をしています。こう言っては何ですが、代が変わると家も変わります。
「三代続けは末代続く」……というのは家や事業のことであってそこに仕える人のことではありませんが、例え短い間であったとしても、いえ、短い間であったとしても主君がこてこて横死する家に仕える、そしてそこできちんと重用されているというのは中々できないことです。
孫堅や孫策に重用されても孫権には疎まれる、そういう話も珍しくはない中で、しっかりと自分の立場と忠義を全うできた、その上で病死した。そう考えると、黄蓋の死因が病死と言うのは、かなりドラマチックではないでしょうか?
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黄蓋、猛将ってだけじゃありません!
さて、最後にちょっと語りたいのですが、猛将イメージの黄蓋について。赤壁の戦いやそれ以外の勇猛果敢な戦っぷりが目に付く黄蓋ですが、彼には意外な?エピソードがあります。黄蓋は決断力があったということ、これは赤壁の戦いでの作戦などを見れば分かりますが、その決断力の高さからか、事務仕事を積極的に片付け、長期間滞らせることはなかったと言います。
猛将な一面ばかり強調されやすい黄蓋ですが、事務仕事を素早く捌いていく能力もあり、またそんな仕事に対する軽視もなかったのでしょう。また兵士にも優しかったことから、慕われていたとも言います。黄蓋と言うと赤壁の戦いでの功ばかり目立ちますが、こういった黄蓋の才覚、能力や人柄なども、もっと親しまれて新しい黄蓋像ができたら面白いなー、と思う筆者でした。
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三国志ライター センのひとりごと
何だかんだ黄蓋が重用されたのも、割と退場が早いからだろうかな……なんて思ってしまうのですが、もしかして生きていたら逆に老害みたいな扱いを孫権に受けていたのか?いやそれはそれで黄蓋がどんな対応を見せるのかも見てみたかったも?そんな思いを巡らせています。
三国志の武将の中でも活躍が早く、退場が早いとどうにもエピソードがもっと欲しい武将はたくさんいますね。個人的に黄蓋はその一人なのですが、もっと注目されないかな、と思うのですがどうでしょうか。それではちょっと黄蓋では不謹慎ですが、どぼーん。
参考:呉書黄蓋伝 周瑜伝
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