皆様は孫瑜という武将をご存知でしょうか。
孫堅の弟である、孫静の息子であり、孫策や孫権から見れば従兄弟となる存在です。建安20年に39歳の若さで没するものの、間違いなく孫家の基盤を支え続けた武将の一人と言える人物です。
しかし若くして没したためか、まだまだ知名度的には低いとも言える人物、そこで今回は、孫瑜について少し解説をしたいと思います。
この記事の目次
孫瑜の基本情報、孫瑜とは誰か、孫瑜についての概要
まずは孫瑜の基本情報について。孫瑜、字は仲異、孫堅の弟である孫静の子で、孫策や孫権とは従兄弟になります。因みに孫瑜の生まれ年は177年となっているので、孫権からすると年上の従兄ですね。父親の孫静は兄である孫堅が戦死した後に、息子の孫策の招聘を受け「一族を率いて」、と記されているので、その子である孫瑜も孫策の下にはせ参じた可能性はありますね。
ここで孫策が王朗相手に攻めあぐねるのですが、孫静の進言から突破口を開き、見事会稽の平定に成功します。この事で孫策は孫静を奮武校尉に任じるのですが、孫静自身は故郷に留まることを望んでこれを固辞しました。
孫瑜自身がこの頃にどうしていた、という記述が少ないため時期ははっきりとしませんが、ここから孫策の死までの間には恭儀校尉となり兵士を預かっていたようです。謙虚な人柄も相まって人々に好かれ、後に兄の行動のために失脚するも孫権からは重用され、最終的に204年に丹陽太守に任命されています。
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孫瑜とその周囲の人々、家族と関係者、孫策や孫権との関係は?
さて、前述したように孫静の子である孫瑜は、孫堅からすると甥に、孫策や孫権からすると従兄弟という立場にありました。また孫瑜にも兄と弟たちがいたのですが、特に注目したいのが兄である孫暠です。
この孫暠、200年に孫策が暗殺されると、配下を率いて会稽郡を支配しようとし始めます。
この反乱は未遂で終わったものの、その後の孫暠がどうなったかは分からず、記録が残されていません。ただ父親である孫静はこれを受けて引退、しかしその子である、そして孫暠の弟であるにも関わらず、孫瑜を孫権は重用し続けたと言います。
実兄が暗殺されて家骨が揺るがされている中での身内の反乱、ありがちと言えばありがちですが、そんな中でも孫権が信頼していたとなると、孫兄弟と孫瑜との関係はかなり良い関係を築けていたのではないでしょうか。また孫策との関係は記されてはいませんが、実は孫策と最も親密な人物とも孫瑜は良い関係を築けていた逸話がありますので、次に紹介しましょう。
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孫瑜の影響力と業績、呉への貢献
孫瑜がもう一人、親しくしていた人物とは、皆様もご存知呉のスーパー総司令官、周瑜。彼は特に孫瑜を信頼していたとされているので、恐らく孫策時代からのやり取りがあったのでしょう。その信頼はかなり深く、周瑜伝によると益州を攻め取ったら孫瑜に任せようと考えていたほど。孫権の従兄とは言え重要な地を任せようとしていたのは、人柄か、それともその才能をかっていたのか……ですが、これは実現せず。
孫瑜はこの益州攻略において孫権から水軍を率いることを命じられて赴くものの、周瑜自身が途中退席してしまったために、この計画はご破算となったのでした。しかしその後、孫瑜は曹操が攻めてきた際に攻撃に出ようとする孫権をしきりに止めようとするなど、どちらかというと慎重派な面が見えてきます。
後に、孫権は孫瑜を奮威将軍に任命、この際に孫瑜は部下に命じて九江郡、廬江郡に降伏を呼びかけさせ、見事に両軍を降伏させることとなりました。敵を打ち取るような華々しい業績は残されてはいませんが、周瑜が益州を任せようと思ったのは、こういった調略の巧みさや孫権を抑える慎重な面をかっていたのではないかと想像が膨らみますね。
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孫瑜が三国志に与えた影響とは
記録が少ない孫瑜ですが、そんな孫瑜の一面が伺い知れるエピソードが一つ残されています。孫瑜が優遇した部下に、馬普という人物がいました。この人物は学問に長けており、孫瑜自身も学問を良く学び、古典を諳んじるほどになったと言います。また、自身だけの学びでは終わらず、部下たちにも学問を学ばせることを奨励したそうです。
この辺り、呂蒙に「勉強しなよ!」と言ったまだ若き日の呉王様を思い起こさせ、何だか血のつながりを感じさせるエピソードですね。
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孫瑜の死因は?
さて、そんな孫瑜ですが、死因ははっきりとはしていません。ただ215年、39歳で死去でした。年齢を当時から見ても、まだまだこれからという頃でしょう。呉は水地の影響か、どうにも早く亡くなる武将が多いのが惜しい所です。
この際に、孫瑜の軍権の多くは弟の孫皎が引き継ぐこととなりました。また孫瑜には五人の子がいましたが、彼らはみな侯となって、その内の一人である孫曼は将軍にもなりました。生前の孫瑜業績を鑑みてのことかもしれませんね。
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孫瑜と三国志の関係、三国志における孫瑜の位置づけと重要性
孫瑜と銘打っておいてなんですが、少し孫瑜の弟である孫皎についてお話しします。
孫瑜の弟である孫皎は兄の死後、濡須で曹操相手に激戦を繰り広げて防衛したり、呂蒙と共に関羽相手に荊州奪還を繰り広げたりなど、様々な面で活躍をします。荊州平定にかなり貢献した孫皎ですが、その直後に病死してしまうのが兄と同じく惜しい所。
また人柄も良く、諸葛瑾ら名士との交流も盛んで、民衆を慈しむ心を持ち、良く他者に施す人物であったと伝えられています。
因みに年長の甘寧に身分差を理由に軽く接したために甘寧の気分を害すも、孫権に訓戒を与えられ甘寧に謝罪したことからそれ以降は親しく付き合うなど、呉の重鎮たちとのエピソードも豊富。さて、では孫喩の位置づけとは何か、と考え始めると、三国志という歴史の中ではかなり埋もれがちな人物と言ってしまえる点にあります。
周瑜と同じく、初期の呉を、そして孫権を支えた人物であることに間違いはないのですが、早逝のために当たり前ながら弟である孫皎の方が記録の方は多く残される結果となりました。しかし三国志という舞台での重要性を考えると、決して孫喩は埋もれることのないポイントを持っているのではないか、とも考えられます。最後にもう少しだけ、孫瑜について考えてみましょう。
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孫瑜とは何か?その影響力と実績、歴史における役割
孫瑜とは、孫策や孫権の従兄弟であり、周瑜にも見込まれる優秀さを持っており、初期の呉、孫権を支えた人物でもあります。早逝したとはいえ、その影響力、立場は弟である孫皎にも引き継がれ、更にそこからその弟にも引き継がれています。これを遡ってみると、父である孫静の代からのことであることが分かるのですね。
そんな孫家は、孫子の末裔とも言われています。孫瑜の一族は、宗家である孫堅の血筋を支え、三国志という大きな歴史の一国になった。列強の一国が貴き血筋であり、その血筋が身内で支えあっていた……これらが、個人的には三国志の中で「呉」、そして孫家、更に孫瑜に求められた役割であり、尚且つ歴史家たちが浪漫を見出してきたのでは、と思いました。そんな孫瑜、惜しむらくは早逝してしまったこと……!
……早世した武将が出てくると度々「惜しむらく早逝……!」と呟く存在になってしまう筆者ですが、どうしても残された記録を見ていると、この続きがあったら……と考えてしまうのです。しかし曹操のように、今後何かしらの情報が、孫瑜だけでなくどの武将でも決して出てこないとは言い切れない。不思議なことにいつか来るかもしれない未来に向けて、過去のことを見つめている。三国志に限らず、歴史好きさんはこの不思議な感覚が、好きなのかもしれませんね。
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三国志ライター センのひとりごと
孫瑜ではなく父親の孫静の話で恐縮ですが、最後にちょこっとだけ。三国志演義で、孫堅の劉表への攻撃に孫静は反対するも、孫堅は止まることなく……という場面があります。たったこれだけですが、勇猛果敢な兄と、慎重型の弟、この構図がとても心に残っています。孫瑜と孫皎だとどちらかというと孫皎の方が行動派に見えるので、おそらく兄弟の特性と言ってしまえることなのですが、孫策と孫権にもこの辺りが見えていて意図して描いたことなのかなぁとずっと考えていました。
最後に三国志演義の話になってしまいましたが、こういう歴史の部分を少し抜き取って創作されていることを見つけると何だか嬉しくなってしまう、そんな小話でした。チャポーン。
参考:呉書宗室伝 周瑜伝 呂蒙伝
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