孔明の北伐は、足かけ7年にも及び、五回に渡って繰り返されました。
兵力については諸説ありますが最大で10万という兵力が動員されています。
これは100万の人口しかない蜀に取っては経済を崩壊させかねない大きな負担でした。
しかし、孔明には、これを可能にする経済に明るい四算(しさん)というべき
経済官僚がいました、王連(おうれん)を筆頭として、杜稘(とき)、
劉幹(りゅうかん)、呂乂(りょがい)という4名です。
この記事の目次
実は経済に明るかった劉備 塩と鉄を専売にする
盧稙(ろしょく)の所で、勉強している頃は落第生で、学費を出してくれていた、
親戚夫婦の期待を裏腹に遊び歩いて、ボンクラキャンパスライフを満喫し
夫婦仲にも、微妙な影を落とした劉備(りゅうび)ですが、
意外にも経済には明るい人物でした。
益州の劉璋(りゅうしょう)を追い落として入蜀すると、
直ちに塩鉄の専売令を出しその販売を独占してしまうのです。
塩と鉄の専売とは、どういう事か?
塩と鉄の専売とは、塩と鉄に関しては、民間の自由売買を認めず、
国が許可した業者か、或いは国自体が塩と鉄を販売する事を意味します。
塩と鉄は人間が生きていく上でなくてはいけないモノなので、
それが、幾ら高くても買わなければいけないものでした。
つまり、塩と鉄を国が抑えると、それは取りはぐれのない、
強力な財源になるわけです。
現在の日本でも、タバコと塩は、政府の独占販売で新規参入が
許されていない事をご存じの方も多いでしょう。
もっとも、幾ら必要とはいえ、あまりに法外に高い値段をつけると、
庶民は闇の塩商人から塩を買うようになるので、その加減は難しいです。
劉備の義兄弟の関羽(かんう)は、若い頃、その塩の密売人でした。
もしかすると劉備は、関羽から「塩は儲かる」という事を聞いていた
という事かも知れません。
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劉備に見出され、司塩校尉(しえんこうい)に抜擢された王連
王連は、荊州南陽郡の出身でしたが、劉璋の時代に益州に移ります。
やがて、梓潼(しどう)県令になった王連の元に、劉備軍が攻めてきます。
周辺の県が次々に降伏する中で、王連は劉璋に義理を立て、
城門を閉ざして、劉備を入れませんでした。
劉備は、その義理堅さに感服し、劉璋を倒した後で王連を登用、
彼は、什邡(じゅうほう)県令、のち広都(こうと)県令と実績を積み重ねます。
そこで、劉備は手堅い能吏である王連を新設した司塩校尉に任命して
塩と鉄の専売を促進させる業務に携わらせます。
王連は、呂乂 杜稘、劉幹を見出す
王連は実施の加減が難しい、塩と鉄の専売を見事に成功させます。
これにより、建国したもののボンビーだった蜀は、ようやく、財源らしい財源を
手に入れて、劉備は群雄として独立できるのです。
そればかりではなく、王連は、司塩校尉の仕事をバックアップできる
新しい経済官僚として、呂乂 杜稘、劉幹を見出し登用しました。
孔明の南蛮征伐を思いとどまらせる程に発言力があった王連
王連がいかに、蜀において影響力が強かったかを示唆する逸話があります。
それは、孔明が政情不安定な南蛮を直接、征伐すると言い出した時です。
「南蛮は、気候風土が苛酷で体調を崩し、死ぬものまで出ます。
あなたは、先帝(劉備)の後を受けて仕事をする重要な人なのに、
どうして、そのような危険な場所に行きたがるのです?」
王連は、何度も孔明に諫言したので、孔明は遠慮して、
南蛮征伐を先延ばしにし、西暦225年、王連が死去してから、
ようやく、自ら南蛮征伐に踏み切ります。
王連を継いだ呂乂は、兵を送り続ける
王連の死後に、北伐に経済と物質面で協力したのは呂乂でした。
彼は王連に登用され、典曹校尉(てんそうこうい)として採用されます。
典曹校尉とは事務方の仕事で、経済官僚を意味しています。
呂乂は綿竹(めんちく)、新都(しんと)の県令を経ると、
巴西(はせい)太守、漢中(かんちゅう)太守、広漢(こうかん)太守、
蜀(しょく)郡太守と重要なポストを歴任します。
呂乂は倹約家で仁慈に厚く、それでいて法に厳しくしたので
人民に懐かれていました。
孔明は228年から毎年のように北伐に出ていますが、
戦争を嫌がる兵は、徴兵しても中々希望通りに集まらず脱走も多く、
孔明は毎回のように兵力の動員に苦労します。
しかし、その中でも呂乂が太守を勤める巴西郡だけは、
毎回必ず5千名の兵士を残らず送り続けたのです。
巴西からは1名の脱落者も出なかったという事でも、
呂乂の手腕がいかに凄いかが分かります。
呂乂 北伐の補給を担う
孔明は、毎回、必ず決まった兵力を送り届ける呂乂の手腕を高く買い、
彼を北伐の最前線の漢中太守に命じて、補給線を担当させます。
長く長く伸び、秦嶺山脈の細い道を補給を絶やさずにやり遂げるのは
呂乂以外にはいないという判断でした。
呂乂は、苦しい補給の仕事を立派にやり遂げて、西暦246年には、
死去した董允(とういん)の後を受けて、尚書に昇進しています。
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三国志ライターkawausoの独り言
孔明の北伐は、彼一人の力で出来たものではなく、
王連、呂乂に代表される四算のような、経済官僚の地道な
事務処理能力が貢献するところが大きかったようです。
派手な活躍をする武将の陰で目立ちませんが、兵を募集し食糧を増産し、
その補給を滞りなく行う彼等の活躍なくしては、
そもそも北伐は、実行不可能だったでしょう。
本日も三国志の話題をご馳走様でした。
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