三国時代は魏・蜀・呉の三国が中華の覇権をかけて争った時代です。この時代の終幕は司馬氏が魏を乗っ取り、晋が建国されます。
そして晋を建国した司馬炎(しばえん)が三国の最後の一つである呉を滅ぼして、天下統一を果たし、三国志は終焉を迎えます。
その後晋は皇族達が相争う八王の乱で国内は大いに乱れ、各地で反乱が頻発。また異民族が中華の内陸になだれ込んだことで、戦乱の世が復活してしまいます。
この戦乱の世に劉備(りゅうび)の子孫を称して晋から独立を果たした人物がいました。その名を劉淵(りゅうえん)と言います。
この記事の目次
人質生活を送る匈奴の皇子・劉淵
劉淵(りゅうえん)は匈奴の皇族として生まれます。しかし当時の匈奴は曹操の政策によって、魏に臣従しておりました。
そのため、彼は生まれて少しの間、故郷で過ごしますが、すぐに魏の首都である洛陽に連れていかれ、人質生活を送ることになります。彼は洛陽で人質生活を送る間、積極的に漢民族の文化を学びます。
兵法書を暗唱し、武芸を好む劉淵
劉淵は洛陽で漢民族の文化を学ぶと共に、漢の兵法書である「春秋左氏伝(しゅんじゅうさしでん)」・「孫子(そんし)」「呉子(ごし)」をすべて覚えるほどの秀才でした。また匈奴の軍隊は弓矢の達人といわれる兵達が多いですが、劉淵も匈奴の男らしく弓矢を好み、その腕前は百発百中でした。こうして洛陽で武芸と兵法を学びながら毎日を過ごします。
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父の死と晋の天下統一
劉淵の父・劉豹(りゅうひょう)は長きにわたって、魏・晋両国の首都である洛陽に住み匈奴が従順であることをアピールし続けてきました。そんな父の努力のおかげで、魏・晋両国から疑いの目をそらすことに成功。
しかし劉豹は晋が建国されて間もなく、高齢で亡くなります。父が亡くなると劉淵は、天下統一を果たした晋の皇帝である司馬炎(しばえん)から父の後を継ぐよう要請され、匈奴左部の代表に就任することになります。こうして彼も匈奴と中華を結ぶ仲介役として職務に励むことになります。
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晋の土台が揺らぎ始める
三国時代を終わらせた晋の皇帝司馬炎ですが、天下統一を果たすと一気に政治に関心をなくし、酒と女におぼれていきます。
そして彼が亡くなると、彼の後を継いだ司馬衷(しばちゅう)が晋の二代目皇帝に就任します。しかし彼はどうしようもないくらいダメな皇帝であったため、彼の奥さんで皇后の賈南風(かなんふう)が皇帝の代わりに政治を行っていきます。
だが彼女の政治も長くは続きませんでした。彼女の専制政治を憎んでいた趙王・司馬倫(しばりん)らによって殺害されてしまいます。賈南風を打倒したことで晋の政治が良くなるのかと思いきや、ますますダメになっていきます。
八王の乱
司馬倫は政治の実権を握り、お気に入りの人や仲の良い人に官職を乱発したり、民を顧みない政治ばかり行われ、晋はどんどん混乱していきます。
そのため司馬倫も他の王族に殺害されてしまいます。こうして晋の権力者を巡って王族達が各地で争いをはじめ、晋国内は収集のつかない状態になってしまいます。
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故郷である匈奴へ帰る劉淵
劉淵は洛陽を治めていた司馬穎(しばえい)から「私に協力して、各地の王族達の討伐を行ってほしい。
そのためあなたを冠軍将軍(かんぐんしょうぐん)に任命し、故郷である匈奴に帰って兵を集めてきてほしい」とお願いされます。劉淵は司馬穎の要請を快く受け、故郷である匈奴へ帰還します。
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