三国志の中で一番の人気を占める劉備が益州に建国した「蜀」。
三国の中で一番国力が弱い国でありましたが、
有能な将軍や名宰相、文官を率いて、
三国最強である魏の国と対等に戦いを繰り広げていきます。
このような国であった蜀ですが、どのようにして建国され、
どうして滅びることになったのでしょうか。
今回は蜀を建国した劉備。
劉備の跡を継いで蜀の国を率いて、
魏と戦を繰り広げた孔明。
そして姜維や政治家達にスポットライトを当てながら、
蜀建国から滅亡までを分かりやすくお伝えしていきます。
この記事の目次
孔明との出会いで運命が変わる
幽州(ゆうしゅう)涿県(たくけん)から出てきた劉玄徳(りゅげんとく)。
彼は関羽と張飛、そして幼友達の簡雍などと黄巾の乱に参加し、
群雄の中を渡り歩きながらしぶとく生き残り、
荊州の劉表に流れ着いた時に劉備の運命を変えた
諸葛孔明を配下に加えます。
孔明は劉備の配下に加わる時に、彼が今後どのように展開すればいいのか、
新たな方針を示します。
孔明が劉備に示した方針は、中原を支配する曹操、江東を長年治めてきた孫権、
そして国の周りを山々に囲まれ守りやすい地である益州を奪って、
劉備にこの地を治めさせるように示します。
こうして天下を三分して国を治め、江東の孫権と同盟を結んで東西から魏に攻め込めば、
魏を打倒できるだろうとアドバイスを行った後、劉備に仕えます。
赤壁の戦いに勝利を収め、自分の領土を手に入れる
孔明との出会いを果たし、自らの進むべき道を手に入れた劉備だが、
荊州へ曹操が侵攻を開始。
劉表の後継者である劉琮(りゅうそう)は曹操の大軍にビビッて、
劉備に一言も知らせずに降伏。
劉備は劉琮が一戦もせず降伏したため曹操に反抗することができず、
劉表の息子・劉琦(りゅうき)が治めている江夏(こうか)へ逃げ延びます。
江夏へ逃げ延びた劉備は孫権と同盟を結び、
曹操と赤壁の地で決戦を行います。
孫権の水軍が赤壁の地で曹操軍を打ち破ると、
劉備は曹操軍の追撃を行うと共に、南荊州へ侵攻を開始。
南荊州には長沙(ちょうさ)・桂陽(けいよう)・零陵(れいりょう)・武陵(ぶりょう)の
豊かな土地へ攻め込み、領土とします。
こうして劉備は荊州の豊かな部分である南荊州四郡を奪い領土とします。
益州からの密使が来る
劉備は南荊州を手に入れることに成功。
この時荊州の名士と呼ばれる馬良(ばりょう)・馬謖(ばしょく)兄弟や
孔明と並び称されるほどの軍略家である龐統(ほうとう)、
弓の名手として知られる黄忠(こうちゅう)など多くの人材が劉備軍に加わっていきます。
こうして人材と豊富な資源を手に入れた劉備の所へ、
益州からの使者がやってきます。
益州から来た張松(ちょうしょう)は劉備に「益州の主である劉璋は、
五斗米道の主である張魯(ちょうろ)と戦いに勝つ事が出来無いのに、
何度も戦いを繰り広げております。
そのため人民は疲弊し、国は乱れております。
そこで劉備様に益州の主である劉璋を追い出し、
治めていただきたいと考えております。どうか考えていただけないでしょうか。」と
伝えます。
劉備は即答を避け、張松を大いに歓待して彼を益州に帰します。
張松は益州へ帰る際に劉備に「私の代わりに、法正(ほうせい)と申す者を寄越しますので、
その時に返事をいただけませんか。」と劉備に伝え、益州へ帰ります。
張松の申し出を受ける
張松の申し出を受けるのか否かの決を採ります。
将軍達は益州を獲るべしと声を揃えて主張しますが、
軍師達は一言も述べず会議は何も決まらずに終わります。
その後軍師の二人を呼び、三人で再び意見交換を行います。
軍師達も将軍達と同じ意見で「張松の申し出を受けて、益州を奪取するべきだと
思います。」と進言します。
劉備は将軍らと軍師達の意見が一致した事で、益州侵攻を決定します。
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