三国志英雄と言われた曹操も官渡の戦いや青州黄巾賊討伐戦などで何度も死地に陥る
苦しい戦いを行っております。
曹操のような苦しい戦いを乗り切ってきた英雄は三国志の時代だけではありません。
漢帝国を樹立した初代皇帝劉邦も苦しい戦いを何度も乗り越えて、
天下統一を行います。
彼の戦いの中で苦しい状況に陥った戦いはいくつかありますが、
その中でも一番苦しいであろう戦いである滎陽城(けいようじょう)籠城戦を今回は紹介しましょう。
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滎陽城に籠城する
彭城(ほうじょう)を空前絶後の大軍で一度は陥落させますが、
項羽率いる三万の軍勢に撃破され、彭城は陥落。
劉邦は命からがら彭城から脱出することになります。
その後彭城の戦いで散った敗残兵を結集させて滎陽城へ入城。
ここで項羽軍を迎撃するべく、防御工事をしっかりと行い籠城準備を行います。
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項羽軍の猛攻を受けきる
項羽は彭城奪還に成功すると劉邦が滎陽城に籠城していることを知ります。
彼は軍勢をいくつかに分けていたため、全軍で滎陽城攻撃を行うことができませんでしたが、
手持ちの兵力で自ら滎陽城を攻撃するため出陣。
滎陽城に到着した項羽軍はすぐに攻撃を開始します。
しかし劉邦が手塩にかけて防御工事を行った滎陽城は項羽軍の攻撃を見事に跳ね返します。
項羽は一度攻撃を中止して、再度火を噴くような勢いで滎陽城を攻撃するも、
再びはじき返されてしまいます。
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項羽軍が滎陽城を攻略できないわけ
戦に関しては無敵に近い項羽ですが、なぜ彼は滎陽城を一撃で攻略できなかったのでしょうか。
一つ目の原因として項羽軍の味方をしていた諸侯が裏切ったためです。
裏切った諸侯の中でも最大の勢力を持っていたのは九江王(きゅうこうおう)黥布(げいふ)でした。
彼は楚の懐王殺害を命じられて以降、項羽との仲がぎくしゃくしてしまいます。
この点に目を付けた劉邦は彼に使者を送って「項羽とうまくいってないなら、
俺と手を組んであいつ倒そうぜ」と裏切るように誘います。
黥布は劉邦の誘いに乗って項羽に反旗を翻すことになります。
項羽は黥布反乱の報告を知ると彼を討伐するため、兵を割いて討伐軍を出撃させます。
このため項羽軍は諸侯の討伐を行わなければならなかったことから、
兵力を滎陽城に集中させることはできませんでした。
二つ目の理由は滎陽城の位置にあります。
この城は劉邦の本拠地である関中に近い場所にあり、関中は名宰相とうたわれた簫何(しょうか)が
おり、彼が漢軍がこもっている滎陽城に兵力や食料などの物資を運んでおりました。
そのため項羽軍の攻撃を受けて損害を出しても、
簫何の才腕によってすぐに兵力や物資が補給されるため、
項羽軍は滎陽城を攻略することができなかったのです。
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危機に陥る滎陽城
劉邦は上記の理由から滎陽城攻防戦を優位に進めておりました。
しかし項羽軍が諸方の反乱を鎮圧し、兵力を滎陽城に集中させ始めます。
そのため滎陽城の攻撃が日に日に苛烈になっていき、劉邦軍の損害は大きくなっていきます。
また簫何(しょうか)からの補給物資も項羽軍の補給路切断作戦によって補給物資が少なくなっていき、
食料や武器、兵士の補給が少しづつ少なくなっていきます。
こうしたことから劉邦軍の優位が日に日に亡くなっていくことになり、
滎陽城は危機的状況に立たされていくことになります。
陳平(ちんぺい)の謀略
劉邦軍には二人の軍師がおりました。
一人はみんな知っている張子房。
もう一人は陳平(ちんぺい)です。
今回はこの陳平の謀略が活躍します。
彼は劉邦に「項羽は血族以外はあまり信用しておりません。
そこで彼の軍師である范増(はんぞう)
を項羽から引き離すために項羽軍の軍中に流言を放った項羽と范増を引き離そうと思います。」と
進言します。
この進言を受け入れた劉邦は陳平に軍資金をふんだんに与えます。
陳平は劉邦からもらった軍資金を使って項羽軍の軍中に范増の悪口を言いふらします。
また項羽軍の使者がやってきた時に豪華な食事を出して接待しようとしますが、
使者が項羽からの使者だと分かると豪華な食事を下げて、粗末な食事を出して接待。
このようにあの手この手を使って項羽と范増を引き離そうと試みます。
陳平の作戦は成功し、項羽は范増を疑い彼を軍中から追い出してしまいます。
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金蝉脱殻の計
陳平の謀略によって軍師范増を項羽軍から追い出すことに成功しますが、
項羽軍の滎陽城攻撃の激しさは変わりませんでした。
そのためいつ滎陽城が陥落してもおかしくない状況でした。
そこで陳平は再び劉邦に策を献策します。
彼は「このままでは滎陽城が陥落し、大王は項羽につかまってしまうでしょう。
そこでこの城に残留部隊を残して、大王は関中に戻って態勢を立て直すのがいいと思います。」
と進言します。
さすがに劉邦はこの作戦を実行することをためらいますが、張良もこの作戦に賛成しており、
残留部隊を選抜している状態でした。
劉邦はこの作戦を採用して関中へ退却することを決意します。
この陳平が提案した作戦は孫子の兵法書に書かれており「金蝉脱殻(きんせんだっこく)の計」と
呼ばれることになります。
残留部隊の諸将は全員討ち死に
劉邦は関中へ向かって滎陽城を脱出します。
その後滎陽城へ残った残留部隊の諸将は劉邦がいなくなった後も戦いを続けますが、
項羽軍の猛攻に耐え切れず城は陥落。
そして諸将はみな討ち死を遂げることになります。
楚漢時代ライター黒田廉の独り言
さて劉邦は滎陽城から逃げ出した後どうしたのでしょうか。
滎陽城を撤退した劉邦は関中へ向かおうと考えますが、
彼は方向を変えて韓信の元へ向かいます。
そして彼は韓信が苦労して集めていた精鋭をかっぱらって、
自らの兵力として項羽軍へ反抗作戦を開始していくことになるのです。
「今回の楚漢戦争時代のお話はこれでおしまいにゃ。
次回もまたはじめての三国志でお会いしましょう。
それじゃ~またなにゃ~」
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