【蜀の運命を決めた人物】呉の大都督となった阿蒙ちゃんの決断が歴史を変えた!?


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周瑜

 

呉の陣営は大都督となる人物によって方針が変わっていきます。

赤壁の英雄として知られる周瑜(しゅうゆ)が大都督となって呉の政権のトップに立っている時は、

劉備(りゅうび)との同盟を親密に結びつけることをせず、孫呉を強大にしようと考えていました。

 

劉備 結婚

 

しかし周瑜亡き後、魯粛(ろしゅく)がトップになると孫権(そんけん)

妹を劉備に嫁がせて同盟強化を図り、劉備軍を盾にして曹操に抵抗しようと考えます。

魯粛(ろしゅく)亡き後は呂蒙(りょもう)が呉のトップに立ちます。

 

呂蒙

 

彼は若い頃勉強に注力しない暴れ者として知られておりました。

だがあることがきっかけで勉学に励むようになっていき、

知識を蓄えていきます。

その彼が孫呉のトップにある決断をしたことによって、

蜀・魏・呉の運命は大きく変化することになります。

 

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孫権に学問を勧められる

甘寧と凌統06 孫権と呂蒙

 

呂蒙は軍の指揮に関しては優れているものを持っており、

孫策(そんさく)の頃から活躍しておりました。

彼が歴史に名を表すのは黄祖(こうそ)討伐戦の時で、水軍の将として参戦。

黄祖軍の配下である将軍を捕捉して討ち取る功績を残しております。

このように軍の指揮にかけては優秀でしたが、学問はからっきしで一切勉強してきませんでした。

そんな彼を見かねた孫権は呂蒙を呼びつけて「阿蒙。お前は軍の指揮にかけては一流だが、

学問を疎かにしているのはよくない。これから呉を背負う人材としてお前に期待しているのだから、

学問を行え」と学問をするように勧められます。

阿蒙は空返事をして一応兵法書を中心として学ぶことにします。

初めは乗り気でなかった彼も次第に兵法書にのめり込んでいき、

しまいには歴史書や学術書など片っ端から勉学に励んでいくことになります。

そんな時、周瑜亡き後呉のトップとして君臨していた魯粛が彼に会いにやってきます。


呉下の阿蒙にあらず

呂蒙 呂蒙

 

魯粛はある時、陸口(りくこう)に用事があり向かっておりました。

その途中で呂蒙の陣営があったのですが、

呂蒙が武の人で学問を疎かにしている事を知っていたので嫌っておりました。

魯粛の部下は主人である魯粛が呂蒙を嫌っていることを知っていたので

「殿。呂蒙殿は昔の呂蒙殿ではありません。

孫呉を担う人材にふさわしい成長を遂げております。」と熱心に勧めてくるので、

魯粛は呂蒙と会うことにします。

魯粛は呂蒙の陣営に行き彼と荊州に居座っている関羽のことについて話すと驚きます。

呂蒙が武の人だと思っていた魯粛ですが、

呂蒙がしっかりと現状を把握して意見を述べているのでつい

「阿蒙ちゃん。君が武に重きを置いている人だとずっと思っていたが、

今では知識をしっかりと蓄え、現状を分析できる技術まで学んでいるじゃあないか。

呉にいた時のままだと思っていたのだけど随分違ってびっくりしたよ」と

感嘆の声を漏らしてしまいます。

呂蒙は魯粛の言葉を聞いて「士は三日会わなければどれだけ成長しているかわからないので、

しっかりと相手を見ないといけませんよ」と注意します。

 

勉強する呂蒙

 

この言葉が現在に残る「士三日会わざれば刮目して見るべし」と伝え残る名言になります。

こうして魯粛に認められた呂蒙は魯粛亡き後呉のトップとして立つ人材へ

成長を遂げることになるのです。


攻めるのはどっち!!合肥or荊州

甘寧 呂蒙 凌統

 

呂蒙は魯粛死後、孫呉のトップに就任。

彼はしっかりと状況を分析して的確に文官や武官に指示を与えてきます。

そんな中関羽が曹魏へ侵攻する事件が勃発。

孫呉は関羽軍が北上して曹魏に攻め入っている際に、

宿願である合肥攻略へ軍を進めて揚州北部へ孫呉の勢力を拡大するか、

それとも劉備との同盟を破棄して、手薄になった荊州へ攻撃を仕掛けるか。

どちらにすべきか決断の時がやってきます。

孫呉のトップである呂蒙は一切迷わず孫権に「関羽が曹魏へ攻撃を仕掛けている今こそ、

荊州を手に入れる絶好の機会ですぞ」と孫権に進言。

孫権は呂蒙の進言を聞いて、少し迷いますが彼が熱心に劉備との同盟を破棄して、

荊州を攻撃すべしと何回も進言してきたので、ついに孫権も荊州を手に入れるべく

関羽攻撃をするようにと全軍に命令を出します。

こうして呂蒙率いる呉軍は手薄になった荊州へ攻撃を仕掛けるべく全軍に出陣を命じます。


三国志ライター黒田廉の独り言

黒田廉

 

呂蒙の決断によって孫呉は魏と同盟を結んで、

蜀が占領している荊州に攻撃を仕掛けることになります。

呂蒙は元々周瑜の考えに近い人物でしたので、

関羽は孫呉に信用をおいてはいけないと分かっていたはずです。

しかし呂蒙の方が外交に関しては一段上手でした。

彼は自らの病を利用して自らの後任を親劉備派で、

天下にその名を知られていない陸遜を後任に命じて、任地を離れていきます。

関羽にもその旨をしっかりと伝えており、彼も無名の陸遜をそれほど警戒しませんでした。

そして関羽は孫呉との領地に接している江陵に残していた守備軍を北上させることになります。

こうして呂蒙は関羽の油断を誘って守備兵のいない江陵を占領することに成功するのです。

もし呂蒙が劉備との同盟を蜜にして曹魏に当たる考えを持っていれば、

関羽は死なずに魏は漢の皇帝を連れて洛陽へ逃げなければならなくなっていたかもしれません。

「今回の三国志のおはなしはこれでおしまいにゃ。

次回もまたはじめての三国志でお会いしましょう。

それじゃあまたにゃ~。」

 

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