ハイ、それでは、三国志の世界をいろいろな角度から掘り下げていく
「ろひもと理穂の三国志・不可能を可能にする」のコーナーです。
今回からあの「袁術(えんじゅつ)」が群雄割拠する三国志の時代に
頂点を極めるための作戦会議を行っていきたいと思います。
袁術は名門・袁氏の出身です。エリート中のエリートです。
バックボーンがあるだけに天下統一は実現可能なはずです。問題は手段なのです。
ちなみに袁術は西暦199年6月に病死しますが、
それは自己破産した社長の夜逃げしていた精神状態と同じだったからです。
経営が上手くいっていれば、袁術にかかるストレスも少なく、体調を壊すこともなかったでしょう。
要するに西暦199年以降も長生きできることを前提にして作戦会議を行いましょう。
どのあたりから考えていくのか
といっても、袁術が幼少の頃から振り返っていても話が長くなるので、
西暦194年あたりから考えていきたいと思います。
それ以前の袁術の様子について少し触れていきましょう。
南陽郡に本拠地を置いていた袁術は、西暦193年に兗州の曹操を攻めます。
名目上では袁術は朝廷から正式に任命された兗州刺史を伴っていたので、
敵対勢力である曹操を追い出すためでした。
匤亭の戦いです。袁術&公孫瓚&陶謙(&劉備)VS曹操&袁紹&劉表という構図でした。
袁術連合軍は大敗し、退路を劉表に断たれて、揚州に落ち延びます。
そして寿春を新たな本拠地とするのです。
西暦194年の勢力図としては、
幽州に公孫瓚、徐州に陶謙がいて揚州の北(寿春)袁術と結んでいます。
幽州の南・冀州には袁紹、徐州の隣の兗州には曹操、
揚州の隣の荊州には劉表がいて、袁術に対抗して手を結んでいます。
西暦194年、その他の勢力や人材
ちなみに西暦193年4月からは曹操が徐州に攻め込み虐殺を続けています。
公孫瓚も袁紹が皇帝に擁立しようとした幽州の劉虞を攻めて滅ぼしています。
長安は李傕・郭汜ら董卓の残党が支配していて、
革命を起こして董卓を討った呂布は東に逃亡している状態です。
劉備は陶謙のもとにいます。
徐州に移り住んでいた孫策はこの年に袁術に仕官しています。
青州には孔融がおり、揚州の南には朝廷から正式に刺史に任命されている劉繇がいます。
豫州はがら空きの状態でしょうか(この刺史の座を巡って袁術と袁紹は争いました)。
司隷の河内には袁紹の支配下にある張楊がいます。
西は益州に劉焉(この年に病死しますが)、漢中に張魯、涼州には馬騰や韓遂がいました。
中華全土の群雄たちはこんな感じです。
力をつけてきたのは黄巾の残党を倒して兵力を増大している曹操でしょうか。
しかし本拠地の兗州は夏候惇や荀彧、盟友である張邈に任せて、曹操の姿は徐州の戦場にありました。
袁術は刺史や牧ではない左将軍
他の群雄らが太守や刺史、牧であったのに対し、袁術は左将軍です。
これは長安にある朝廷を押さえた李傕が、袁術と誼を結ぶためによこしてきた官位ではあります。
李傕は車騎将軍、郭汜は後将軍、樊調が右将軍、
張済が鎮東将軍といった具合ですから、
朝廷の他に長安や弘農を支配していた董卓の残党とほぼ同格の扱いということになります。
出世争いだけを考えたら袁術は他の群雄よりも一歩リードしていることになるのです。
袁術は揚州の牧に陳瑀という男を勝手に就任させていたといわれています。
左将軍の位にいるということは州刺史や州牧より上の立場ということですね。
この辺りのアドバンテージもうまく利用していきたいです。
三国志ライター ろひもと理穂の独り言
さて、状況はだいたいお伝えしましたので、
果たしてこれから袁術がどのような政治をしていけば天下統一できたのか考えていきたいと思います。
袁術は、なかなかいい位置に今はいるということは把握しておいてください。
それではこの続きは第2回の作戦会議になります。
皆さんも考えてみてくださいね。
次回記事:袁術が天下を統一するためにみんなで考えよう【第2回】
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