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三国志演義には、駆虎呑狼(くこどんろう)、十面埋伏(じゅうめんまいふく)、
苦肉(くにく)の計など、沢山の計略の名前が出てきます。
しかし、それらの計略は物語を面白くする為のフィクションである事も多いのです。
では、実際の三国志の世界では、どんな計略が使われたのでしょうか?
今回は、史実でも確認できる計略について紹介しましょう。
この記事の目次
人の猜疑心に付け込んだ背筋も凍る賈詡の計略・・
一番手は、武帝紀に記された、曹操(そうそう)に仕えた策士、賈詡(かく)の
編み出した計略です、西暦211年、関中の馬超(ばちょう)は韓遂(かんすい)と
同盟を結んで曹操に叛きます、世に言う潼関(どうかん)の戦いです。
曹操は、優秀な騎馬兵を率いた馬超と韓遂に手を焼き賈詡に計略を求めました。
すると賈詡は、わざと講和に応じる振りをして、韓遂と逢うように曹操に求めます。
そして、戦争の話はせずに、昔の思い出話をして欲しいと要求しました。
曹操は言われた通り、馬で韓遂と会見して昔話を開始します。
ちなみに馬上で敵同士が会話をするのは当時よくあり交馬語(こうばご)と呼ばれます。
韓遂と曹操は若い頃からの知り合いで、共にバカをやった昔を懐かしみ
話は盛り上がり、お互いに手を叩いて笑ったと記録にあります。
馬超は、それを離れた場所から見て、不信感を持ちました。
何を話しているか分らないから、余計に疑惑が募ります。
戻ってきた韓遂に馬超は「曹操と何を話した?」と聞きますが韓遂は、
「いや、昔話に花を咲かせただけだ」と素っ気なく答えます。
曹操から届いた黒塗りの手紙に馬超の疑惑が爆発する
しばらくすると、韓遂に曹操から手紙が届きました。
ところが、手紙を開封してびっくり、そこには何か文字が書かれた上から、
墨で塗りつぶしが行われており、全く読めないのです。
そこへ、馬超がやってきました、咄嗟(とっさ)に韓遂は手紙を隠します。
「今、何を隠した?曹操からの手紙だろう、見せろ!」
言い逃れ出来なくなり、韓遂が手紙を見せると馬超の不信は増大します。
「どうして手紙を塗り潰した?ここには何と書いてあったのだ!」
「ち、違う!この手紙は最初から塗り潰されて、読めなかったのだ・・」
馬超は、せせら笑いました、そんな嘘に騙されると思うのか?という態度です。
韓遂が弁解すればするほど、馬超の疑惑は確信に変わり、とうとう両者は仲違いし
連合軍は分裂、その隙を突いて曹操は出撃し撃破してしまうのです。
原文:他日 公又與遂書 多所點竄 如遂改定者 超等愈疑遂
それにしても賈詡、恐ろしいヤツです、人の猜疑心を利用して黒塗りの手紙を与え
韓遂がそれを否定すればするほど、猜疑心のスパイラルに嵌りました。
相当に性格が悪くないと、こんな計略は思いつかないでしょう。
ポピュラーな計略の道具、鴆毒
三国志の世界でも使用された毒と言えば鴆毒(ちんどく)が挙げられます。
鴆とは鳥の名で羽根に猛毒を持っているとされ、羽根を水に浸し毒を取るとされますが、
架空の鳥であるようで、実際には自然界の鉱物に微量含まれているものを採取し
それを集めて毒として使っていたようです。
現在では、鴆毒は、三酸化二ヒ素として知られ、水に溶けると亜ヒ酸に変化しますが、
恐ろしい事に無味無臭であり、5ミリグラム以上を摂取すると、嘔吐、下痢、
血圧低下から頭痛を引き起こし死に至ります。
また、鴆毒は微量だと死にませんが、中毒性がありどんどん体に蓄積していき、
胃腸障害、腎障害、肝障害、そして神経障害を引き起こし皮膚が黄色くなって死にます。
病気に見せ掛けて殺すには、うってつけの毒と言えるのです。
酒や水、食物に混ぜて使いますが、摂取してしまった場合には、
助かる方法は、体に吸収される前に吐き出すしかありません。
三国志においては、霊帝(れいてい)の跡を継いで帝になった劉弁(りゅうべん)こと
少帝(しょうてい)が、董卓(とうたく)により毒を飲む事を強要されますが、
少帝の飲んだ毒が鴆毒であると言われています。
トリカブトを使った毒矢による計略
毒を飲ませられる程、親密でも弱くもない相手を倒す計略としては毒矢があります。
鴆毒とは違い、皮膚の内部に入る事で浸透する毒であり、烏頭(うとう)とよばれます。
読んで字の如く、トリカブトの事で日本では古来、附子(ブス)とも言います。
このトリカブトは、致死量、3~4ミリグラムで、唇や腹部の皮膚に痺れを感じ、
やがて呼吸困難を起こして意識が混濁し死に至ります。
三国志では、矢じりに塗りつけて使い、主に弱い兵が敵将を殺すのに使われました。
江東の小覇王、孫策(そんさく)は西暦200年、許貢(きょこう)の食客に襲われ
トリカブトの毒を塗った矢が頬に刺さり、即死はしませんでしたが、衰弱していき
後の事を部下に託して、間も無く亡くなりました。
もう一人、トリカブトの毒を受けたのは、軍神、関羽(かんう)です。
いつの頃か分りませんが、敵の矢を肘に受けてから治らず、梅雨の時期には、
嫌な痛みが起きたので、医師を呼んで見せると、矢じりにはトリカブトの毒が塗ってあり
その毒が肘の骨を腐食させて膿み、熱と痛みを発していると診断されます。
放置しておくと、腕は使えなくなると言うので、関羽は医師に切開手術をさせ、
腐食した骨を削り取って全快する事が出来ました。
関羽は手術の間、平然と炙り肉を裂いて、酒を体に近づけて飲み食いしていたと
記録されていますが、痛くなかったのでしょうか?
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ゲームでもお馴染みの計略 埋伏の毒
埋伏の毒とは、甘い食べ物の中に苦い毒を埋め込むという意味で、
味方だと信用している人間が実は敵のスパイというようなケースを言います。
史実の三国志では、呂布(りょふ)の配下として仕えた陳珪(ちんけい)と
陳登(ちんとう)の親子が有名です。
両者は曹操の指示を受けつつ、呂布と袁術(えんじゅつ)が同盟を結ばないように、
陰に陽に呂布に袁術の悪口を吹き込み、曹操を持ちあげる進言を繰り返します。
それにより、呂布と袁術は仲違いし、戦争まで行うようになりました。
呂布は勢いが衰えると、再度、袁術と同盟を結ぼうとしますが、その頃には、
呂布は曹操の攻撃を受けており、袁術も敗戦と飢饉のWパンチで国力がガタ落ちし
とても力を合せるような状態ではありませんでした。
元手入らずで当たれば決定打、火計
火計(かけい)は、説明不用な程にポピュラーな計略で、要は火を放って、
敵の兵糧、軍船、あるいは兵士そのものを焼き払ってしまう事です。
火計は、三国志演義のみならず、正史にも枚挙のいとまがない程に出てきます。
西暦190年、董卓が反董卓連合軍の追撃を回避する為に洛陽に火を放っていますし、
200年の官渡の戦いで曹操が袁紹(えんしょう)を破った決定打は袁紹軍の
食糧集積所であった烏巣(うそう)の焼き討ちでした。
西暦208年、赤壁の戦いでは、黄蓋(こうがい)が偽りの降伏を装い、薪を満載して
魚油を染み込ませ、火を掛けた小船を曹操の水軍に突撃させて焼き払っています。
三国志の時代に実際にあった計略について徹底紹介
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