魯粛が病死した後、荊州の政略を担当したのは誰でしょうか?
大半の人がそれは呂蒙と答えると思います。しかし、その答えは不正解で実は厳畯という人物だったのです。ところが厳畯は孫権の指名を辞退、その後任として呂蒙が決定しました。一体、どうして厳畯は魯粛の後継者を拒否したのでしょうか?
この記事の目次
厳畯とはどんな人?
厳畯は字を曼才と言い、徐州彭城の出身です。多くの書物を保有し、詩経、書経、三礼に精通、加えて説文解字を好みました。戦乱を避けて江東に移住し、そこで、歩隲、諸葛瑾と深く交流し高い名声を得ます。かたや丞相、かたや大将軍に昇進する二人と交際しているのですから厳畯もなかなかの人物であった事が見て取れます。
堅物の張昭に見いだされて孫権に推挙され騎都尉、従事中郎になります。真面目を絵に書いた人物で、慎み深いですが、これはという言う人物には、真心を持って接して善導したそうです。
厳畯は軍事に疎いとして魯粛の後任を辞退
217年、魯粛が死去すると孫権は、厳畯を抜擢して陸口に駐屯させ1万人の兵を与えました。陸口は対魏・対蜀の重要なポストで周瑜、魯粛、厳畯と受け継がれました。人々は厳畯の為に喜びましたが、当の厳畯はポストを辞退します。
「私は山出しの書生に過ぎず軍事の才能などまるでありません。その任にあらぬ者に任を与えれば、咎めと後悔に塗れるでしょう何卒、ご容赦を願います」
こうして、厳畯は涙を流してポストを辞退したというのです。また厳畯伝を補う志林という書物では、ある時に孫権が厳畯が馬に乗れるか試してみたところ鞍には跨がれたものの、そのまま落ちてしまったとあります。孫権は厳畯の辞退を残念がり、後任として呂蒙を就任させ、人々は厳畯の分限を知る態度に賞賛を送ったというのです。
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馬に乗れないから軍事に疎いとは言えない
しかし、この話には違和感がありありです。そもそも、厳畯のポストは騎都尉で皇帝を守る羽林騎を指揮する立場です。軍事の才能がない人間を騎都尉に任命するでしょうか?そんなとんまな人選を孫権が許すとも思えません。もう一つは、これ見よがしに挿入された志林の逸話です。厳畯は馬にも乗れず、落馬してしまったという話からは、これでは到底、戦場で指揮を取る事は出来ないという印象を受けるでしょう。
ですが、三国志の時代、馬に乗れる人はごく少数しかいませんでした。中国で乗馬が一般役人まで普及するのは唐の時代の事です。
例えば袁紹の配下だった顔良は、白馬の戦いで麾蓋の下で指揮をしそれを関羽に発見され刺殺されたと書かれています。麾とは指図旗、蓋とは衣の覆いを意味していて顔良が天蓋付き馬車で指揮をして関羽に刺されたという意味なのです。猛将顔良は戦う時には騎乗せず、徒歩だったかも知れません。
孔明にしても馬に乗って指揮したというような描写はありません。実際には、顔良が利用したような指揮車で移動したのではないかと思います。つまり、馬に乗れないから指揮ができないというのは関係ないのです。また、世説新語に晋の時代に庾翼という乗馬が得意な人がいて話を聞いた庾翼の妻の母がわざわざ城壁に登って見物したという話があります当時乗馬が出来る人は、それ位に珍しかったのです。
厳畯の辞退は孫権と打ち合わせた芝居?
ここで厳畯の辞退は、一種の八百長ではなかったか?という疑惑が湧きます。つまり、最初から孫権は呂蒙を後継に考えていたが無位無官からの叩き上げの呂蒙を抜擢すると名士層の風当たりが厳しくなるので一芝居を考えたのです。孫権は敢えて厳畯を指名して辞退させる事で
「こういう事だから呂蒙でしょうがないよね?
厳畯は馬にも乗れない体たらくだし・・」という風潮を作り出しておき厳畯には謙譲の美徳を与え、呂蒙は名士層の批判をかわせるようにあらかじめ手を打ったのです。
衛尉になった厳畯・・
厳畯は孫権が皇帝に即位すると衛尉に任命されています。こちらは九卿なのですが、またしても兵士を管轄する地位なのです。それも、3000人からの宮廷の兵士を指揮する立場でありやはりどうしても軍事の才能が御座いませんという厳畯の言葉が嘘臭く感じてしまってなりません。
厳畯の最終職は、尚書令ですが、これは、厳畯が親友の劉潁の罪を孫権の前で弁護して免職された後に許されて就いた地位で衛尉のポストはすでに埋まっていたので、尚書令という事になっただけかも知れません。本当に厳畯は軍事に疎かったのでしょうか?
三国志ライターkawausoの独り言
では、逆にどうして孫権は呂蒙を陸口に駐屯させようとしたのでしょうか?
これは、孫呉で大きな勢力があった徐州閥をけん制する意図ではないかと思います。孫権の処世術は、政権内の異なる派閥を競争させて、自己の安全を図るもので夷陵の戦いでも子飼いの朱然を総司令官にせずに、敢えて陸遜を抜擢して勢力のバランスを取るようにしている節があります。
大体、権力の簒奪が起きるのは、君主が一方の勢力を偏重して使い反発した別勢力が逆襲するか、或いは君主が依存しきった勢力に取り込まれてしまうケースが大半なので孫権の判断は賢明かなと思いますけどね。
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