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賈充の父・賈逵は息子と違い軍事に優れた人物だった!?

2019年5月28日


 

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反対する賈充

 

司馬昭(しばしょう)の側近として謀略に優れた賈充(かじゅう)。賈充は司馬昭死後、司馬炎(しばえん)に重用され晋王朝(しんおうちょう)元勲(げんくん
)
と言われた人物ですが、彼の父親も賈充に似て謀略に優れた才能を残した人物なのでしょうか。今回は賈充の父親について紹介したいと思います。

 

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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賈充の父・賈逵はどんな人?

賈逵(かき)

 

賈充の父親はいったい誰なのでしょうか。

 

曹操

 

彼の父は曹操(そうそう)から「天下の2000千石の給料をもらっている人がすべて君のような人物なら俺も安心だ」と高評価された賈逵(かき
)
です。

 

皇帝に就任した曹丕

 

賈逵は曹丕(そうひ)からも「賈逵を手本にせよ」と言わしめるほど優秀な人物でした。

賈逵は曹操・曹丕二代から高い評価をもらいますが、どのような人物だったのでしょうか。

 

 

 

軍事に優れた賈逵

 

賈逵は賈充とは違い謀略に優れた才能を開花した人物ではなく、優れた軍指揮官として才能を見せます。

 

彼は幼いころから戦に興味を持ち、村の子供達と戦ごっこをして遊んでいたそうです。賈逵の祖父は賈逵が戦に興味を持っていた事から、兵法書を読ませて彼に軍略を学ばせていたそうです。賈逵は幼いころから軍略を学んだおかげで、袁尚(えんしょう
)
の武将・郭援(かくえん
)
が攻め込んできた時、計略を駆使して郭援の軍勢を撃退することに成功します。賈逵は曹丕・曹叡の時代にも大活躍していますので、賈逵の軍略の優れた面を紹介しましょう。

 

 

曹丕・曹叡時代にも軍事面で大活躍!!

曹丕

 

賈逵は曹丕の時代、魏と孫呉の国境・豫州(よしゅう
)
の統治を任されます。

 

賈逵は孫呉が攻撃をしてこないように軍備をしっかり整えていたため、孫呉も攻撃することができませんでした。賈逵は孫呉へ攻撃をかけた際、呂範(りょはん
)
の軍勢を打ち破る功績を残し侯の位へ昇進。また賈逵は曹叡(そうえい)の時代にも優れた軍功を挙げています。

 

曹休

 

曹休(そんきゅう)は孫呉の武将の偽投降を信じてしまい、孫呉の領土へ攻撃を仕掛けます。孫呉は曹休の軍勢を石亭でコテンパンに打ち破ると、魏軍に大損害を与えるため、追撃を行います。

 

曹休

 

賈逵はこの時、曹休を救うため自分の軍勢が大軍のように見せかけ、孫呉の軍勢を戦うことなく引き揚げさせ、曹休を救うことに成功します。このように賈充の父・賈逵は軍略に優れた才能を持った人物でした。

 

 

政治にもすぐれた才能を持った賈逵

 

賈逵は軍事面以外にも政治に優れた人物でした。

 

五虎大将軍の馬超

 

曹操が馬超(ばちょう)討伐へ向かう際、軍事上の要衝・弘農(こうの)の太守を賈逵に任せます。賈逵は弘農太守を任されるとしっかりとこの地を治めることに成功。また賈逵は曹丕の時代にも民政で大活躍します。曹丕は皇帝になると鄴の民衆が不法行為を幾度も行っていることを知り、賈逵に鄴の太守を任せます。賈逵は鄴の太守になると不法行為を行う民衆を捕えていき、法を順守させることにします。

 

その結果、鄴からは不法行為を働く民衆が居なくなったそうです。また賈逵は曹丕から豫州刺史を任されると新しい堤を建築。更に賈逵は200里渡って運河を作り、民衆から喜ばれたそうです。ついでに賈逵が作ったこの運河は「賈侯渠」と言われたそうです。このように賈逵は政治においても優れた才能を持った人物でした。

 

 

三国志ライター黒田レンの独り言

三国志ライター黒田レン

 

賈逵は軍事・政治に優れた人物でしたが、曹家を安泰へ導いた有名なエピソードが残っていますので、最後に紹介して終わりたいと思います。曹彰(そうしょう
)
は曹操が洛陽で亡くなると(ぎおう)の印を管理している賈逵へ「魏王の印はどこにあるのだ」と質問。

 

 

曹彰

 

 

賈逵は曹彰へ「魏王の跡継ぎはすでに決定されています。あなた様が質問する内容ではありません」ときっぱりと断っています。この時賈逵が曹彰の質問に答えて魏王の印を渡してしまったら、曹丕・曹彰・曹植(そうしょく)達が曹操の跡を継ぐために戦が起きていたかもしれません。

 

このことを考えると賈逵が曹彰に魏王の印を教えなかったから、魏国が安泰へ向かったといえるのではないでしょうか。

 

■参考 正史三国志魏書など

 

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黒田廉(くろだれん)

黒田廉(くろだれん)

三國志が大好きです。オススメのマンガは曹操を描いた蒼天航路がオススメです。三國志の小説のオススメは宮城谷昌光氏が書いた三國志です。好きな食べ物はマグロ、ぶり、アジが大好きな猫です。

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