死ぬときは一緒と誓った3名でしたが、劉備が曹操暗殺計画に加担した為に曹操が徐州に攻めてきて敗戦してしまい、バラバラになってしまいます。
この先には有名な芒碭山で山賊に落ちぶれた張飛が、劉備を迎えに行こうとする関羽を曹操の手先と罵り襲い掛かるシーンがあります。
しかし、その場面は、正史三国志には登場しない演義だけのフィクションです。
では、どうしてこんな喧嘩話が創作されたのでしょうか?
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西暦200年から8年間どこに行ったか不明な張飛
どうして、張飛は芒碭山で山賊をして関羽と喧嘩する羽目になったのか?
その最大の原因は、正史三国志にあります。
張飛は涿郡の人である。若くして関羽と共に劉備に仕えた。
関羽の方が数歳年上で張飛は兄として敬った。
劉備が曹操に従い呂布を破り許に帰還、曹操は張飛を拝して中郎将にした。
西暦200年劉備は曹操に叛いて袁紹・劉表に付き従った。
西暦208年、劉表が死んで曹操が荊州に入ると劉備は江南に奔った。
曹操はこれを追い一日一夜にして当陽の長阪に及んだ。
劉備は曹操が至ったと聞くと、妻子を切り離しロケットダッシュ
張飛には二十騎を率いさせて後方を防がせた。
大体ここまでが正史三国志張飛伝の西暦208年までです。
張飛は呂布討伐で手柄でもあったのか曹操により中郎将に推挙されています。
しかし、この記述で張飛に関する記述はぶっつり途切れ次に名前が登場するのは西暦208年の長坂の戦いなのです。
つまり、凡そ8年間、張飛がどこで何をしていたのかまるで分かりません。
この空白の8年間を埋める為に三国志演義の作者たちが考えたのが張飛の芒碭山での山賊暮らしなのです。
逆にやたらに詳しい関羽の履歴
一方で、義兄弟の関羽の西暦200年からの動向はやたらに詳しいのです。
西暦200年、曹操が東征劉備は袁紹に奔り曹操は関羽を捕らえて偏将軍にして礼遇。
関羽白馬延津の戦いで顔良を殺害、白馬の包囲を解く、関羽、漢寿亭侯に封じられる。
曹操、関羽が自分に降る気がないか張遼に打診させるが関羽は劉備に義理立てし拒否。
曹操が与えた大量の恩賞を一つも使わずに封をして袁紹の下にいる劉備に走る。
逃げる関羽を捕まえるべきと騒ぐ群臣を抑えて曹操が関羽を許す劉備に従って劉表に就いた。
このように関羽の逸話は、かなり詳しく時系列を追っていて、徐州での離散から劉備への再合流がしっかりと分かります。
そこで、張飛の記述とのアンバランスさに整合性を持たせる為に、関羽には千里行のエピソードを挿入し、その途中に張飛と合流させて
張飛の勘違いから喧嘩寸前という話を造ったのでしょう。
しかも次いでとばかりに劉備と離れていた趙雲も出会わせて辻褄を合わせちまえと、かなり強引な事をしてますしね。
張飛の根城、芒碭山がちょっと面白い
ところで、どうして張飛が根城にしたのが芒碭山なのでしょうか?調べると結構、面白い事が分かってきます。
この芒碭山は、かつて秦帝国に反旗を翻した張楚王陳勝が御者の荘賈に愛想を尽かされて殺された後
改めて埋葬された場所なのだそうです。
その後、ここには前漢時代の呉楚七国の乱で活躍した梁王劉武が豊富な財力を傾けて宮殿を造り、当人とその子孫の墓は
芒碭山の頂上にありました。
その後、三国志の時代、資金難に喘いだ曹操が特命墓泥棒集団である摸金校尉と発丘中郎将を組織して、
梁王劉武一族の墓を暴きまくったのもこの山です。
三国志演義では張飛が山賊をし、正史三国志では曹操がリアルに泥棒している山これはなかなか皮肉が効いたチョイスです。
さらには、この芒碭山、水滸伝に登場する道士樊瑞や項充、李袞という無頼漢の根拠地になっています。
もう、ここまで色々な事が続くと、三国志演義の原作者たちが、なんとなくで芒碭山を張飛の根拠地にしたのではないのが分かります。
手塚治虫のスターバンクシステムではないですけど、知名度が高く水滸伝でも共通して使われる著名な場所として芒碭山を選んだのでしょう。
三国志ライターkawausoの独り言
張飛と言えば、曹操の下から逃げ出す途中で夏侯氏の娘を攫っていますが、それは張飛伝ではなく夏侯淵の伝に引く魏略に登場します。
それも奇妙と言えば奇妙で、なんで張飛伝に載せなかったのでしょう。
よく見ると張飛は曹操に中郎将に取り立てられていますし、1人で一万人を相手に出来る猛将として評判を得ています。
もしかして、もしかしてですが、張飛は徐州で敗戦した後に関羽と同様に曹操に捕縛されて、夏侯氏の娘をあてがわれて
まんざらでもなく、しばらく留まっていたのではないでしょうか?
しかし、関羽が曹操に暇を突きつけて出て行ったので自分1人、曹操陣営に残るのに不安を感じ夏侯氏の娘を連れて忽然と許から消えてしまった。
みたいな理由なら、張飛の足取りが8年間不明でも、何となく辻褄が合うような気がします。
でも、張飛のような武勇がある男を総力戦である官渡決戦で曹操が使わない(余所者で死んでも痛くも痒くもないのに)のも不自然ですし
やはり、真の理由は別にありそうですね。
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