西晋(265年~316年)は初代皇帝司馬炎の死から間もなくして外戚(=皇帝の一族)である楊氏が実権を握ったので、政治は乱れます。
そこに目をつけて登場したのが、匈奴の劉淵という男でした。彼はいったい何者でしょうか?今回は劉淵について解説します。
※記事中のセリフは現代の人に分かりやすく翻訳しています。
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まさか、オヤジはサイヤ人
劉淵は魏(220年~265年)の嘉平年間に(249年~254年)に生まれたと言われています。父は劉豹。劉豹は「左賢王」とも呼ばれ、後漢(25年~220年)の女性詩人蔡文姫と結婚した人で有名です。しかし、これには矛盾しています。左賢王が活躍していたのは後漢末期。蔡文姫が南匈奴に拉致されて左賢王と結婚したのは興平年間(194年~195年)です。左賢王の生没年は分かっていませんが、蔡文姫と結婚時点で20歳と推定しても、劉淵が生まれた時で75歳以上!
『ドラゴンボール』のサイヤ人のように、年齢を重ねるのが遅い民族でない限り、嘉平年間に(249年~254年)子供を作るなんて無理な話です。おそらく劉淵の部族は、名も無き弱小部族だったのでしょう。ただし、劉淵の正当性を付けるために、父親の名前に左賢王を使用したと考えられています。
八王の乱
太熙元年(290年)に司馬炎は亡くなり皇太子が即位しました。第2代皇帝恵帝です。この皇帝は、あまり賢くなく政治は外戚の楊駿に握られます。これに反発した恵帝の皇后である賈氏は司馬亮(汝南王 司馬懿の三男)と司馬瑋(楚王 司馬炎の次男)に協力を求めました。彼らは楊駿を殺害してくれますが、仕事を終えたらもう用済みです。2人とも賈氏により抹殺されて、今度は賈氏による専制が始まります。
永康元年(300年)に司馬倫(趙王 司馬懿の五男)が、虐げられることに我慢出来なくなりクーデターを起こします。クーデターの結果、賈氏は排除、恵帝は幽閉されました。勝利に終わった司馬倫は自分が皇帝になることを宣言。
だが、これに反発した他の王が司馬倫を抹殺。永寧元年(301年)に司馬冏(斉王 司馬炎の甥)・司馬顒(河間王 司馬懿の姪孫)・司馬乂(長沙王 司馬炎の三男)・司馬潁(成都王 司馬炎の七男)・司馬越(東海王 司馬懿の姪孫)が親族間での戦争を起こします。
混乱は光熙元年(306年)に司馬越が第3代皇帝懐帝を即位させるまで続きました。この一連の騒動を「八王の乱」と言います。
劉淵の即位と西晋への反乱
話を劉淵に戻します。劉淵は幼少期から洛陽で生活していました。この時に多くの知識人と交流したそうです。八王の1人である成都王の司馬潁は彼の部族を使うために、洛陽になるべくとめておきました。ところが、八王の乱がひどくなるにつれて、匈奴も自立を図るものが増えてきます。
劉淵も従祖父の劉宣から独立をすすめられました。そこで劉淵は司馬潁を説得して外部の敵に備えることを口実に、司馬潁のもとを離れることに成功。戻った劉淵は独立を宣言します。西暦304年でした。元号は「元熙」と定めますが、国号はなんと「漢」だったのです!
その理由については以下の通りです。
「漢は天下を支配することが長く、その恩徳は人心に結びついている。だから劉備は益州だけで天下を張り合えたのである。我々匈奴は漢皇帝の甥であり兄弟ともなった。兄が滅んだら、弟が継ぐのは当然である。漢と称して劉禅を追尊し人望を懐くべきである」
なんてプラス思考な解釈。劉淵は漢(前202年~後220年)の時に匈奴が兄弟関係になったことを根拠に自分たちの国を「漢」と自称したのです。要するに継承順番は、前漢→後漢→蜀漢→漢(劉淵の国)・・・・・・こんな感じです。
建国後、劉淵は司馬騰(東海王 司馬越の弟)を破り、鮮卑・氐族の有力者を配下に収めていきました。漢の永鳳元年(308年)に劉淵は皇帝に即位します。このまま一気に西晋を攻め滅ぼすことも可能です。ところが、人生とは上手にいかないものでした。2年後の河端2年(310年)に劉淵はこの世を去りました。
西晋討伐は次の世代に託されます。劉淵が建国した「漢」は第5代皇帝劉和の時に「趙」と改められました。趙という国は当時、2つ存在していたので今回紹介した国は後世、「前趙」と呼ばれることになります。
三国志ライター 晃の独り言
今から5年前の話ですが、『後三国演義』という本を古本屋で購入して読みました。本当の題名は『後三国石珠演義』と言います。どうやら清(1644年~1911年)の頃の小説らしいですが、詳しいことは分かっていません。
内容は三国時代終了直後から始まります。石珠と劉弘祖という人物が、悪政を行う西晋を倒すために立ち上がるという勧善懲悪小説です。負けたと思ったら次のページでは調子よく勝つというパターンが連続するので現在で例えるのなら、「ライトノベル」やネットの「異世界転生小説」に近いものでした。
昔の人も今の人と考えが変わらないのかもしれませんね(笑)
※参考
・三崎良章『五胡十六国 中国史上の民族大移動』(東方書店 2012年)
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