三国志演義において、張飛が長坂橋のど真ん中に仁王立ちし、文聘、曹仁、李典、夏侯惇、夏侯淵、張遼、楽進、張郃、許褚、それに曹操を前に一歩も引かずに逆に曹軍を退却させた逸話は、万人敵の張飛を象徴するものとして有名です。
この逸話は正史に元ネタがあるのですが、正史での張飛の活躍は戦略的にあまり役に立っているとは言えない感じなのです。
この記事の目次
おさらい:張飛が長坂橋を落とすまで
では、最初に張飛が長坂橋を落とすまでを時系列に沿って簡単に解説しましょう。
①曹操が荊州征伐を開始
②劉表が死去し劉琮が即位、曹操に降伏。
③樊城にいた劉備は、劉琮から事情を知らされず曹操が宛に到着してから逃走。
④襄陽通過時に諸葛亮がyou荊州を乗っ取っちゃいなyoと提言、劉備拒否
⑤劉備が劉琮に曹操と戦うように呼び掛けるが劉琮はブルって応答なし
⑥当陽通過時、難民10万以上輜重が数千輌になり劉備軍は1日6~7キロしか進めない
⑦関羽に船数百隻を率いさせて別ルートで江陵に向かわせる。
⑧部下が難民を放棄して迅速に江陵へ向かう事を提案。劉備は却下
⑨曹操は江陵の軍事物資を先に抑えるべく輜重を置いて軽騎兵5千で全力追撃。
➉一日と一夜掛けて曹操は長坂で劉備に追いつく
⑪劉備は妻子を棄て諸葛亮、張飛、趙雲等数十騎とロケットダッシュ!
⑫曹操は劉備が置き去りにした難民と輜重を確保(曹純は劉備の娘2人を捕らえる)
⑬劉備、江陵への道を外れ漢津に到着し偶然、関羽の船と合流、沔水を渡る。
⑭劉表の長子、江夏太守の劉琦の手勢一万余と遭遇する
大体、長坂の戦いの時系列は以上です。特に下線を引いた部分の事を覚えておいて下さい。
張飛、長坂橋を落として曹操軍を足止め
妻子を棄て、諸葛亮、張飛、趙雲など数十騎で全力で逃げる劉備ですが、曹操軍騎兵の追撃が続くので張飛は殿を請け負う事になります。
三国志蜀書張飛伝では、この時張飛は二十騎を率いて後方に残り、河水に拠って長坂橋を落とし、目を瞋らせて矛を横たえると、「我こそは張益徳である。勇あるものは来たれ、ここで生死を決そうぞ!」と言うと、敵は誰も近づこうとはせず、このために逃れる事が出来たとされています。
あ!細かい事ですが、三国志演義の張飛は橋の上で曹軍を威嚇し後に橋を焼き落とした事になっていますが、正史の張飛は、最初から橋を落として河向こうで威嚇しています。
疑問1:張飛を追撃した騎兵はそれほど多くないのでは?
例によって、正史には長坂橋を落とした張飛の手勢は二十騎と判明していますが、張飛を追撃する曹操軍の騎兵の数は記録されていません。しかし、⑨番を見ると曹操は劉備が江陵を抑える事を恐れて、軽騎兵五千で全力で追尾しているので、ここまで到着したのは最大でも五千と推測できます。
また、一日と一夜駆けているという事は、騎兵は寝ていない可能性もあります。途中で、休息を与える可能性もありますが、一刻も早く江陵を抑えたい曹操が、そんなちんたらした追撃戦をするとは考えにくいです。
そこで徹夜で駆けて劉備軍に追いつき劉備が潰走した時点で、曹操が騎兵の何割かに休息を与えている可能性もあります。さらにもう一つは、⑫で劉備が放置した数千の輜重と十数万の難民を管理する為にも兵力を割かねばなりません。
また、そのまま江陵まで進撃する騎兵も残しておかないといけないでしょう。これらの事を考えると、張飛を追う事が出来た曹軍の騎兵は数百という程度に減るのではないかと思うのです。
疑問2:江陵さえ押さえれば劉備はアウト・オブ・眼中
もう一つは、曹操が劉備を捕らえる事にそれほどこだわるだろうかという疑問です。正史三国志では、曹操が恐れているのは劉備が江陵に入って軍需物資を手に入れて兵力を回復して籠城してしまう事だけです。
だからこそ、一日と一夜を費やして軽騎兵で劉備を追撃したのであり、劉備軍が壊滅してしまい、僅か数十騎の手勢になった段階で今さら江陵に入ろうと、軍勢を持たない劉備には、なにも出来なくなっていました。
曹操としては、劉備の無力化には成功しているので、手負いの獅子のようになっている張飛をいたずらに刺激して、あたら騎兵を死なせたくないと考え、強いてまで張飛を討たなくてよいと命令したかも知れません。張飛が完全に曹軍を足止めしたというより、曹操がこれ以上の追撃の必要を認めなかったというのが、長坂の戦いの真相ではないでしょうか。
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