『三国志演義』で諸葛亮(しょかつりょう)の死後に蜀(221年~263年)の将軍である魏延(ぎえん)は反乱を起こしました。
魏延は諸葛亮の側近である楊儀(ようぎ)のもとで働きたくなかったのです。この反乱は諸葛亮から密命を受けて魏延軍に入っていた馬岱(ばたい)が魏延を斬ったことで終了します。吉川英治氏や横山光輝氏の『三国志』では魏延が帝位を狙おうとしていた人物に脚色されています。
しかし今回、晃は見つけました。皇帝を助けながら心中では帝位を狙った悪質な人物です。その名は王敦(おうとん)。今回は王敦について解説します。
西晋滅ぶ
泰始元年(265年)に司馬炎(しばえん)は魏(220年~265年)を滅ぼして西晋(265年~316年)を建国します。さらに、太康元年(280年)には呉(222年~280年)を滅ぼして天下統一に成功しました。
ところが、その平和も長くは続きません。司馬炎の死後に後を継いだ西晋第2代皇帝・司馬衷(恵帝)は暗愚であり、政治も皇后の一族に乗っ取られます。
そのため一族で激しい内乱が起きてしまい、その隙を異民族である匈奴が攻めてきて永嘉5年(311年)に首都の洛陽が陥落!さらに建興4年(316年)には西晋も滅ぼされました。
東晋建国
多くの民や兵士、皇族は匈奴に殺されたり拉致されましたが逃げきった人がいました。彼の名は司馬睿。彼は司馬懿の曽孫です。司馬睿はどうにか建康まで逃げることに成功します。建康は呉の首都だった建業です。
司馬睿と一緒に逃げて来たのが王導と従兄の王敦でした。彼らは琅邪という土地で力を持っており王導は政治的手腕、王敦は軍事的手腕に長けていました。
また、王敦の妻は司馬炎の娘でした。つまり王導と王敦は外戚(=皇帝の一族)だったのです。こうして司馬睿と王導・王敦による連合政権により新しい王朝が建国されました。これを東晋(317年~420年)と言います。
太鼓の達人 王敦
今回の主役である王敦には逸話が残されています。1つ目は司馬炎が存命していた時でした。王敦の出身である琅邪は山東省でした。要するに田舎です。従弟の王導は礼儀作法が分かる人物でしたが、王敦は武芸一筋でありそのようなものは無縁。
『世説新語』という史料によると、司馬炎や他の人々が集まって議論をしていましたが、方言が強い王敦はなかなかしゃべれません。王敦は自分が田舎者とバレるのが恥ずかしかったのです。
それでも勇気を振り絞ったのか「太鼓の打ち方だけは知っています・・・・・・」と言います。司馬炎が試しに太鼓を用意したところ王敦は急に人が変わったように叩き始めます。周囲にいた人々も「熱い、熱いぜ!」と共感して場が盛り上がったそうでした!
トイレマナー 知らなかった
2つ目はトイレマナーについての話。王敦が新婚の頃、トイレに行くとナツメが置かれていました。
「都のトイレには食べ物があるのか?」と思った王敦は、ナツメを食べてしまいました。汚い話で申し訳ないですが実はこのナツメは、排便をした際にトイレに悪臭がこもるから、その匂いをかぎたくないという人のための「鼻せん」です。
王敦がトイレから出ると侍女が水と豆を用意してきました。豆は現在の石鹸です。しかし王敦はそれを知らないで豆も水もその場で飲み食い!
呆れた侍女は笑ったそうでした。
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