司馬懿が魏の忠臣として挙げた手柄の一つに、有名な反乱鎮圧があります。反乱と言って思い出されるのは孟達の件も思い起こされるでしょうが、今回は別の人。
遼東で発生した公孫淵の反乱ですね。
今回はこの公孫淵と司馬懿の鎮圧を見ていきましょう……特に日本の歴史がほんの少し変わったかもしれないお話ですからね。
公孫淵とは?
まずはちょっと公孫淵のご紹介を。公孫淵は公孫康の次男であり、父が早くに亡くなったので、家は叔父であった公孫恭が引き継いでいました。その性格はかなり横暴だったようで、兄が外出している間に叔父を脅迫し、太守の座に付いています。
孫権の侵攻の際には使者を送り、孫権に降りたいと言いながら孫権からの使者を惨殺、その持ってきた食料などを奪うというもの凄いことをやらかしている人物でもありました。
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余談:叔父の脅迫に関して
さてここでちょっと余談を。公孫淵は叔父を脅迫して無理やり自分にその地位を譲らせましたが、その脅迫に関して。実は叔父の公孫恭はEDであったようで、この件で脅迫したんですね。現代でも余り触れ回られたくない話、しかも後継者が残せないというこの時代には致命的な病気。
その件を脅されてはどうしようもないでしょうが、それならそれで叔父に後継者の座を頼むなり何なりもっと方法はあるでしょうに、ここで脅迫と出るのが公孫淵の性格に難があるのが良く出ていると思います。
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調子に乗りまくる
さてここで太守の座を得た公孫淵は調子に乗ります。魏の勅命を無視、燕王を自称、周囲にオリジナルの玉璽を与えるなど、とんでもない行動に出てきます。
流石にこんなのを野放しにしておいては魏の恥。ここで討伐を申し付けられたのが司馬懿でした。
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兵は拙速を貴ぶ
さて兵は拙速を貴ぶ、という言葉があります。拙速とは拙く早い、拙いとは劣ったり、下手だったりする言葉、そして速い……つまり兵を動かすのは時間をかけてじっくり良い考えを出すよりも、多少劣っていても速く動く方がいい、という言葉ですね。
司馬懿の行動は正にこれで、孟達の反乱鎮圧、そして公孫淵の鎮圧も正に電光石火、素早い対処を行っています。
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公孫淵の反乱鎮圧は「一年ほど頂ければ」
公孫淵の反乱鎮圧に関して、当時の皇帝・曹叡は司馬懿に尋ねました。
「どのくらいで対処できる?」
「往路で100日、戦闘に100日、復路に100日、休息に60日の計1年ほどでしょう」
この司馬懿の言葉に偽りはなく、司馬懿は237年12月に出陣。238年7月に公孫淵一族を討伐、そして238年12月に洛陽に帰還と、正に電光石火の仕事っぷりを見せつけたのでした。
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