中国大陸の歴史は、秦の始皇帝以来、分裂しては統一されるという繰り返しでした。
正史三国志も司馬炎が建国した晋により最期に残った孫呉が滅亡する事で物語が終わるので、後世の私達は、司馬炎はきっと中華統一が悲願だったに違いないと思いがちです。
しかし、司馬炎の行動を見てみると、そこまで呉を滅ぼす事に熱心でもなかった事が浮彫りになってくるのです。
蜀滅亡から17年後の快挙?
晋の母体である曹魏が蜀を滅ぼしたのが西暦263年、そして晋により呉が滅ぼされたのが、280年、その間には17年の開きがあります。
司馬炎が即位したのは265年ですから、そこからカウントしても15年間も司馬炎は、中華統一の動きを見せていません。
その間、呉が強くなっていたのなら兎も角、孫晧の暴政下にあり豪族は離反、呉の重臣が晋に亡命する事も年中行事になっていて、大軍で推せば倒れそうな状態になっていました。
別に司馬炎の即位まで待たなくても、蜀を滅亡させた鄧艾に、そのまま呉の討伐を命じていれば、その時点で三国統一はなっていたような気もします。ここまで司馬炎の中華統一が遅れた理由は一体なんでしょうか?
呉がザコなので放置
天下統一の動機の1つとして、敵国が自国ほどではないにしても侮れない国力を保持し、今後も脅威になり得る場合があります。
例えば蜀は諸葛亮時代と姜維時代に度々北伐を繰り返し魏にダメージを与えていましたし、漢王朝の後継を自認するイデオロギーから魏を簒奪者で不倶戴天の敵と見做したので、妥協も不可能で機会を見つけて叩き潰す必要がありました。
しかし、呉は孫権が皇帝に即位したので疎ましい存在ではありますが、孫晧の時代になると、北伐と呼べるような軍事進攻もなくなります。
精々、晋の霍弋に奪われた交阯を271年に虞汜と陶璜が奪還したり、277年に夏口督の孫慎が江夏から汝南に軍を進めて、焼討ちをかけた上で、住民を略奪し帰還した程度の記述しかありません。
このように呉は、イデオロギー的に決して相容れない相手でもなく、何より弱っちいので、大した脅威には成り得ず、わざわざ攻め込んで被害を受けたくないという消極的な心理が働いたとも考えられます。
関連記事:能力か血統か?司馬炎VS賈充VS杜預、三つ巴お家騒動
呉よりも強い敵
もうひとつ司馬炎が中華統一に消極的だった理由は、西暦270年より涼州で鮮卑族の禿髪樹機能が10年間も断続的に反乱を起こし、涼州刺史を2人秦州刺史を1人と合計3人の刺史を殺し、晋王朝にクリティカルなダメージを与えながら、暴れ回っていた事が挙げられます。
さらに271年には、南匈奴の劉猛も晋に反旗を翻し并州に攻め込んで、并州刺史劉欽に撃退されますが、翌年に劉猛が部下に殺害されるまで反乱は継続しました。
司馬炎は、特に涼州の反乱に悩まされ名将文鴦、次には湯隆を派遣して樹機能の反乱を鎮圧しましたが、「樹機能の方が蜀や呉よりも強い」という感想をもらしています。結局、禿髪樹機能は279年の末に湯隆に敗れて斬殺されようやく反乱は終結しました。
歴代の中国王朝を見ても、亡国の兆しは涼州や并州からの異民族の侵入ですから、司馬炎が涼州の反乱が片付くまでは呉に構っている暇がなかったのは、無理からぬ事でした。
関連記事:司馬懿の孫の司馬炎は何をした人なの?謎の占田法・課田法など解説
関連記事:司馬炎の息子は一体何人いたの??
群臣に戦争反対が多い
また、晋国内で九品官人法による門閥貴族化が進んで、三国志初期の荒々しい気風が薄れて、戦争そのものを厭う気風が生まれた事も大きいです。
生まれつき高位が約束されている門閥貴族が軍隊を率いる要職に就くわけですから、最初からハングリーさの欠片もなく、敗北すれば罰があり、最悪戦死する従軍は可能な限り回避したいと考えるのは当たり前でした。
このような事から、呉討伐は何度か浮上しては群臣の反対で消えるを繰り返していて、司馬炎もあわよくばやりたいが、反対を押し切ってまでは…と消極的だったのです。
関連記事:司馬炎は滅呉するまでに時間がかかった理由は?呉は手強かった?
関連記事:司馬炎は武帝・曹操に匹敵するほどの功績を残せなかった?
【次のページに続きます】