三国志の名将として知られている関羽には二人の息子がいます。1人は関羽とともに若い頃から戦場に出て樊城の戦いで父とともに討ち死にした関平。もう1人は諸葛亮から期待されていたものの若くして亡くなった関興です。
この二人は正史三国志における記載が少なく、どんな人物だったのか詳しくは分かっていません。しかし、三国志演義では関平は関羽の養子という設定になっていて、徐州の戦いで曹操に敗れて散り散りになった劉備三兄弟が合流する頃から関羽と行動をともにしています。
関興も関羽の死後には夷陵の戦いに参戦し、仇である潘璋を討って青龍偃月刀を取り返すなど活躍が見られる他、その後も蜀の次世代の武将として諸葛亮の南征や北伐に従軍しました。今回はこの2人の息子がなぜここまでの脚色をされたのかを考察していきたいと思います。
この記事の目次
関平は実子か養子か?
演義における関平は関定という人物の次男という設定で、関定の屋敷で劉備と関羽が再会した際に、関定たっての希望で関平が関羽の養子となっています。
正史では明確な記述はないものの、孫権に捕らえられて斬首された際に「関羽と息子の関平を臨沮で斬首した」という記載があることから実子である可能性が高いです。
また、関帝志という書物では178年に関羽と妻の胡氏の間に関平が生まれたという記載もあります。そのため、養子というのは演義における脚色であって、史実では実子だったという意見が一般的です。
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三国志演義で関羽の養子設定になった理由
演義の関平は養子設定をされている以外に大きな脚色はありません。史実と同じく関羽とともに斬首された点も同じなので、あえて養子のエピソードを挟む必要はないように思えます。
筆者は当初、関羽を義理堅い人物と見せるための演出かなと考えましたが、時代背景を見ていくともう少し深い理由があったのではないかと考えを改めました。
その理由は南宋後期から人気を高めていく岳飛の存在です。
岳飛は南宋の忠臣で、金との戦いで活躍しました。
その死に関しても冤罪で極刑に処されるという悲運なもので、冤罪が晴れてからは顎王に封ぜられるなど印象が変わっていきます。
そして関羽と岳飛は壮絶な最期や忠義の士である点、三国志時代の荊州方面から北伐をしていることなど共通点が多々あるので、中には岳飛を関羽の生まれ変わりとする説もあるなど同一視されていました。
そんな岳飛には5人の息子がいますが、長男の岳雲と次男の岳雷は養子だったという説があります。そして岳雲は父とともに処刑されるなど関羽、関平親子と似た最期を迎えているので、演義でも岳飛側に寄せるように関平を養子としたのではないでしょうか。
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岳雲の実子説と養子説
岳雲が養子だったという記載は「宋史」に記載されているのですが、他の書物では実子だったという記載があります。
岳飛は生涯を通して2人の女性と結婚していますが、岳雲と岳雷は前妻であった劉氏との間に生まれた子供です。しかし、劉氏は岳飛が戦地に赴いて家庭が困窮した際に2人の息子を連れて他の人と再婚をしました。
その後、岳飛は李娃という女性と再婚するのですが、成長した岳雲が岳飛の麾下に加わっている所をみると後に連れ戻した可能性が高いです。つまり、もともとは実子であったが、他家の子供となった息子を連れ戻したから養子になった。あるいは後妻である李娃を本妻として捉えるために、劉氏との婚姻関係が曖昧なものとなり養子とされたのかもしれません。
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三国志演義の時代背景
三国志演義ができたのは明代とされていますが、岳雲を養子として扱っている宋史が編纂されたのが元代後半の1345年です。
また、南宋から元代にかけては岳飛を題材とした戯曲が人気で、三国志演義も元代の戯曲を引用している点を考えると岳飛との関連性は無視できません。
さらに岳飛は明の太祖の時代に、37人の名臣の1人として祀られるなど人気が高い様子が伺えます。明の14代万暦帝の時代には関羽と同じく帝王の称号を加増されている事からも、この辺りでは同一視が始まっていたと言えるでしょう。
つまり、三国志演義はこうした岳飛という時代の人気者と関羽が同一視される中で生まれた可能性があり、エピソードの中にも岳飛と関羽の親和性が高い話を挿入する方が大衆受けしたのではないでしょうか。
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