小説「三国志演義」を読んでいると、戦いの場面はとても興奮しますが、よく見てみると書かれている兵力がとにかく多いです。
例えば「赤壁の戦い」では曹操軍は100万人の兵力を動員した、と書かれています。実際にこの大量の兵士を動員するのは可能だったのでしょうか?
正史「三国志」の記述を見ながら、実際はどのくらいの人数だったのか、今回の記事では探ってみます。
この記事の目次
「三国志」時代の中国の人口は?
中国では古代の時代から税徴収などのために「戸籍制度」が整備されてきました。その戸籍によると後漢時代の西暦140年ころには約5000万人の人口がいました。
しかしこれが「三国志」の時代(西暦260年から280年くらいのデータ)になると、
魏が約440万人
呉が約230万人
蜀が約94万人
合計約760万人と急減しています。
いくら戦乱があったとはいえ減りすぎなので、流人になった、私兵がいる、など恐らく戸籍に載らない人が多数いたと考えられます。
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人口に対してどのくらい兵士として動員できるのか?
兵力は人口に対してどのくらい動員できるものなのでしょうか。
例えば日清戦争で旧日本軍は人口の5%程度を兵力として動員したそうです。第一次大戦ではフランスが10%以上の動員を行いましたが、国が不安定になったそうです。
時代が変わっても国の安定の為、動員には限界がありますから、恐らく三国志の時代でも人口の5%から10%くらいが動員の限界なのではないでしょうか。これを踏まえて正史「三国志」と小説「三国志演義」の兵士数を見てみましょう。
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「官渡の戦い」での兵力比較
「官渡の戦い」は曹操と袁紹が、中国北部の覇権をかけて激突した「三国志」序盤の名場面です。この戦いにおいて「三国志演義」では袁紹軍は70万以上の大軍を、曹操軍は10万人の兵力を動員したことになっています。これは同時の人口を考えると明らかに過剰で、演義の演出過多でしょう。
正史「三国志」では袁紹軍10万、曹操軍1〜2万となっており、これが妥当な数字かと思います。いずれにせよ袁紹軍は曹操軍の10倍近くの大軍であり、袁紹を破った曹操の力量は只者ではないことが感じさせますね。
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膨大な兵力が動いた「赤壁の戦い」
「赤壁の戦い」は天下統一を目指す曹操を、孫権、劉備の連合軍が破った天下分け目の大合戦です。小説「三国志演義」でもこの戦いを大いに盛り上げ、なんと曹操軍は100万の大軍で攻め寄せたことになっています。
これは先述の魏の人口からみてみると40%以上の動員になってしまい、何とも国元が不安です。正史「三国志」では曹操軍は15万から20万となっており、動員兵力は約3%から4%で、おおむね妥当だと考えられます。一方孫権軍は「演義」では明確な数字が示されていませんが10万人くらい、正史では2~3万人くらいの兵力で戦いに臨んだそうです。
連合軍の劉備軍は正史では1万人くらいの兵力でしたが、当時劉備は客将のような身分だったため、身を寄せていた「劉琦」の荊州兵力が大きかったと考えられます。
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諸葛亮最終決戦!「五丈原の戦い」
「五丈原の戦い」は諸葛亮が魏の司馬懿との最後の戦いです。「三国志演義」では蜀の兵力はわかりませんが、かなりの大軍で決戦に臨みました。
「晋書」の「宣帝(司馬懿)紀」によると蜀軍は10万人だそうで、これは蜀の人口の約10%になり、まさにこれはほぼ国の全精力を上げた決戦だったことがうかがわれますね。一方魏軍はその倍程度の兵力だったと考えられ、当時の魏の人口から考えると相当の余裕があるようです。
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【北伐の真実に迫る】
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