今回ご紹介するのは、末期の呉で最期まで戦い続けた張悌という人物です。この張悌、見る人によっては忠義の人であり、見る人によっては国を衰退に導いた張本人でもありと、中々に評価が分かれる武将であると思います。
そんな張悌、司馬昭に対する評が『襄陽記』に乗っているのですが、これが何とも面白い。今回はそちらも見つつ、張悌という人物を見ていきましょう。
この記事の目次
張悌という人物
張悌、字は巨先。荊州襄陽郡の人物で、279年に呉の丞相に就任します。が、よりにもよってこの直後に晋の20万という大軍が押し寄せてきました。このため張悌は就任早々、国を背負って戦うこととなりました。
戦いの前に、沈瑩が長江を渡って戦うのは不利であるので、敵が長江を渡って来た所を迎撃するべきだと進言します。しかし、張悌の答えは別のものでした。
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「呉の滅亡は誰もが理解している」
張悌は長江を渡って戦うことを選びました。この際に張悌は「呉の滅亡は誰もが理解している所だろう。このまま敵が攻めてきてはその勢いのまま我が軍は蹴散らされ、戦わずに降伏することになってしまう。国の難事に誰一人も殉じないのは恥である」と答え、晋の一群を囲み、降伏に追い込みます。
この際に諸葛誕の子である諸葛靚が「敵の降伏は偽りだから全員穴埋めにしておけ」と進言するもこれを却下。そうしてそのまま王渾軍に当たります。
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敗北と滅亡へ
その際に降伏軍は反旗を翻し、挟み撃ちにされた張悌の軍は崩れ、諸葛セイが何とかその軍を立て直して撤退しようとします。この時に諸葛セイは一緒に逃げようと張悌の袖を引っ張る(ちょっとかわいい)のですが、張悌はこれを受け入れることなく、本日は自分が死ぬ日であると言い、そのまま突撃し、討ち死しました。
諸葛セイは泣きながら軍を引いていったと言います。こうして多くの武将、兵士たちが討ち取られたことで、呉は滅亡へと進むことになりました。
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その最期
この張悌の最期、個人的にはどこか姜維を思い起こします。姜維もまた、最期まで戦おうとし、北伐も繰り返しました。その北伐も蜀の国力を疲弊させた、姜維のやったことは蜀を滅亡に近付けた、とも言われています。
なので姜維と同じく、張悌もまた評価の分かれやすい武将だと思います。姜維はどこまで蜀が勝てると信じていたかは分かりませんが、張悌はその残された言葉から「負けることは分かっていた」と思われます。
ではそんな負け戦に部下を巻き込み多数の死者を出した存在か?
というとそうでもありません。
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もう一つの見方
もう一つの見方として、呉の兵士たちの忠義心を、負け戦に望むことで晋の諸将に見せつけたとも言えます。つまり呉の人々がここまでする、と思わせることで、残された人々が少しでも良い扱いをして貰えるように取り計らっての死ではないか、ということですね。正に国の、残された者たちへの最期の手向け。このどちらの理由と見るかで、張悌は評価の分かれる武将であると思います。
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