「三国志」には赤兎馬という名馬が登場しますが、そんな赤兎馬のモデルになったとも言われている伝説的な馬こそが「汗血馬」です。今回は、そんな汗血馬という存在が彩る中国古代史について見ていきたいと思います。
中華文明と馬との出会い
人類が馬をはじめて家畜化したのは現在からおよそ6000年前と言われています。そして、それは中華文明でも例外ではありませんでした。『史記』などによれば、現在から3000年以上前の殷・周王朝時代には、既に馬が利用されていたことが示唆されています。
殷・周時代の馬は主に戦車を曳かせるため、すなわち軍事に用いられていました。その後、春秋時代に入ると牛馬耕が普及し、家畜として農業における貴重な労働力ともなっていったと言われています。
その後、戦国時代に入ると、趙の武霊王(在位:紀元前325年〜紀元前298年)が北方遊牧民の戦術に着想を得て、「胡服騎射」を導入します。これは、馬に戦車を曳かせるのではなく、遊牧民のような服装を身につけ、馬に乗って戦うという新戦術でした。これは、中華世界に初めて騎馬戦術が導入された瞬間でした。
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騎馬の強さが戦争を制する
その後、秦の始皇帝が中華世界を統一します。
始皇帝は中国を統一した後、北方遊牧民である匈奴の侵攻に頭を悩ませます。
遊牧民である匈奴は騎馬戦術に長けており、特に馬上で踏ん張りを利かせる鐙が発明されていない時代において、日常的に馬に乗っている遊牧民と、騎乗の習慣がない農耕民との間には騎乗技術に大きな開きがありました。
そのため、匈奴の騎兵は秦にとっても大きな脅威となっていたのです。そのため、始皇帝は万里の長城を築き、匈奴の侵入を食い止めるという消極的な作戦を取らざるを得ませんでした。
始皇帝の死後、秦はすぐに滅び、ライバルの項羽を倒した劉邦が皇帝となって前漢王朝をうちたてます。
劉邦は匈奴に対して積極的に戦いを挑みましたが、匈奴の騎馬戦術の前に惨敗し、以降前漢は匈奴に対してなかなか攻勢に出ることはできませんでした。これは当然、圧倒的な騎兵戦力に支えられた匈奴の軍事力を恐れてのことであり、まさしく騎兵の強さが戦争を左右していたと言えるでしょう。
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漢の武帝と汗血馬の登場
しかし、前漢の第7代皇帝である武帝(在位:紀元前141年〜紀元前87年)は、長年の宿敵である匈奴を攻めることを計画します。とはいえ、普通に戦っても匈奴の強力な騎兵の前に敗北するのは必至です。そこで、武帝はどうにかして前漢の騎兵を強化できないかと模索していました。騎兵の強さを支えるのは、馬の強さです。
武帝は、他の追随を許さない速さと長い距離を駆けるスタミナを併せ持った理想的な駿馬を手に入れることができれば、前漢の騎兵も匈奴に劣らぬ戦力となると考えていました。
そんな武帝の時代、張騫という男が登場します。彼は武帝の命を受け、前漢の都・長安から遥か西の西域(現在の中央アジア)に至る大旅行を敢行します。
張騫は途中匈奴に捕まりながらもなんとか難を逃れ、十数年後に武帝のもとへ帰還します。その際、張騫はまだ中国では知られていなかった西域の情報を数多くもたらします。
張騫は武帝に、西域の大宛という国には「血のような汗を流し、一日千里を走る名馬」がいる、との報せを伝えます。武帝はこれを聞き、この「汗血馬」こそが名馬中の名馬であり、匈奴と戦うためにも是非ともこの馬を手に入れたいと渇望するようになります。
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汗血馬を渇望した武帝
武帝は汗血馬を求め、大金を持たせた使者を大宛に送りますが、大宛は汗血馬を売りませんでした。そこで、武帝は力ずくで汗血馬を入手せんと、李広利将軍を派遣し、大宛を攻撃します。
最初の遠征は失敗に終わりますが、莫大な費用と24万もの大軍を投入した二度目の遠征でついに大宛を降伏させ、3000頭余りもの汗血馬を獲得します。
汗血馬を得た武帝は大いに喜び、「天馬徠兮從西極、經萬里兮歸有徳、承靈威兮降外國、渉流沙兮四夷服」(「西の果てより天馬が来た。万里を経て有徳の(皇帝の)ものとなった。霊威を受けて外国を降し、流砂を渡って夷狄を征服した。」)という歌を歌ったと言われています。
しかし、武帝が多くの犠牲を払って汗血馬を得たのは紀元前104年であり、この時には既に、衛青・霍去病将軍の遠征によって匈奴は弱体化しており、「匈奴と戦うために汗血馬を得る」という目的は意味を失ってしまっていました。とはいえ確かに、「血のような汗を流し、一日千里を走る名馬」という汗血馬は、ロマンに満ち溢れ、かの武帝をして渇望せしめるような特別な名馬であったのでしょう。
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その後の汗血馬
武帝の死後、「汗血馬」はどういうわけか史書から忽然と姿を消してしまいます。武帝の死後も匈奴との戦いは断続的に続いたので、武帝が得た3000頭余りの汗血馬は軍馬となったか、繁殖馬としてその血脈を後世に受け継いだのでしょうか。
武帝が西域に進出して以降、中国から中央アジアを経由し、地中海に至る「シルクロード」が重要な交易路となっていきます。シルクロード交易において、中華世界の諸王朝は特産物の絹を西域の商人に売り、絹と引き換えに西域産の馬を得るという「絹馬貿易」を行っていたといわれています。
「汗血馬」が歴史の片隅に埋もれてしまった後も、西域の駿馬は中華世界の人々にとってあこがれの存在であり続けていたのでしょう。
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三国志ライター Alst49の独り言
いかがだったでしょうか?
「血のような汗を流し、一日千里を走る名馬」という伝承を残す汗血馬は、現代の我々にとっても、ロマンを感じさせずにはいられない存在です。ましてや、馬の強さが騎兵の強さであり、ひいては国の強さともなっていた当時の人々にとって、汗血馬という存在は単なる駿馬を超えた伝説的なものだったのでしょう。
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