正史三国志が、三国志演義とは部分によってはだいぶ違うというのは有名なお話。今回はその中でも馬超のやり取り……から起こる、涼州軍閥との戦いに注目してみました。
ここでは数々の凄惨な犠牲の元、何とか争いは馬超を張魯の所に逃して終幕するのですが……その中でも、楊阜の伝はもはや一つのストーリーか?と思うほどにまとまっています。
今回はその楊阜伝を脚色込みでご紹介させて頂きます。
この記事の目次
冀城を包囲した錦馬超
さて話の始まりは涼州に逃れてきた馬超が、蜂起したところ。馬超の蜂起に追従しなかったのが、涼州刺史である韋康です。
韋康と共に、彼に仕える楊阜らは冀城にこもって馬超に対抗します。しかし援軍がないまま、八ヶ月もの時が経ってしまいました。四方八方を敵に囲まれ、援軍も望めないまま長期間、耐え続けるだけ。城の士気も限界だったことでしょう。
閻温が命を懸けて将兵を激励
ここで、決死の脱出をしたのが閻温です。閻温は夜間に水中を泳いで城から脱出、援軍を要請するために走ります。しかし奮戦虚しく、馬超たちに捕らえられてしまいました。
馬超は閻温に、城に向かって「援軍はこない」と伝えるように、と言うと、閻温はこれを了承します。そうして翌日、閻温は冀城に向かって、叫びました。「援軍は、三日以内に来るぞ!」
籠城していた兵たちは、この言葉に士気を挙げました。ですが閻温自身は、激怒した馬超に殺されることになります。閻温は、命を賭けて仲間たちを鼓舞したのです。
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韋康は諦めて馬超に降伏し処刑される
しかし、この時に城主である韋康は既に降伏を考えていました。これに趙昂やその妻の王異、姜叙や楊阜は大反対。楊阜は涙ながらに降伏だけは止めてくれと訴えますが、韋康は馬超との和議を結ぶため、開城します。
韋康とその一族は、ことごとく処刑されました。嘗て韋康によって召し出された楊阜は、馬超に復讐を誓います。そしてそれは、涼州の他の者たちも同じでした。
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葬儀の名目で城を出た楊阜が兵を集める
表向きは馬超に臣従することにした楊阜たち。そんな中、楊阜の妻が病死します。楊阜はこれを利用して、妻の葬儀という理由で城を出て、歴城にいた姜叙を訪れました。
ここで楊阜の言葉に胸を打たれた姜叙の母は、息子に馬超討伐計画に乗るように説得。姜叙のみならず、涼州の多くの有力者たちがこの計画に賛同し、参加しました。
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