「周瑜」と言えば孫権率いる「呉」の代表的武将であり、「赤壁の戦い」などでの活躍で知られていますね。そんな周瑜、若くして亡くなったので、活躍の期間は限られていますが、いくつかの逸話を残しています。
今回の記事ではそんな周瑜のプロフィールといくつかの逸話を紹介しましょう。
この記事の目次
名家の出身だった周瑜
周瑜は代々漢王朝において高い地位を得ていた家系の出身です。父は洛陽の県令(県知事に相当)を務めていました。成人するとその風采は高く評価され、世間で名が知られていました。
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孫策との出会い
孫権の兄である「孫策」とは親友ともいえる間柄でした。その始まりは孫策の父「孫堅」の時代までさかのぼります。孫堅が黄巾族討伐のために挙兵した際、孫策は母とともに周瑜の故郷に移り住んだのです。その時周瑜の実家は自分の家の南側の邸宅を孫策一家に提供をしたのです。
そこから周瑜と孫策は意気投合し、親友とも呼べる仲になりました。
孫策は周瑜の事を「周公瑾は英儁異才、我と総角の好、骨肉の分なり」すなわち「周瑜はとても優れている、私とは幼いころからとても仲が良く、まるで骨と肉を分けたようだ。」と絶賛しています。
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とんでもなくイケメンだった
周瑜は今風にいうと「イケメン」だった、と言われています。幼いころから「周郎」(周若様)と言われ、その容貌も「長身で姿も良かった」と「三国志」にも書かれています。
正史「三国志」の中でここまで書かれている人は少なく、当時から容姿の良さは突出していたと考えられます。
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音楽も得意だった!
意外な一面としては「音楽に通じていた」という所があります。正史「三国志」によると、「若いころから音楽に通じており、音楽を聴いているとたとえ酔っぱらっていてもその間違いを指摘することができた。」と記載されています。
世間の人は「音を間違えると、周瑜が振り向くぞ!」ということを歌っていたそうです。
対立するものも心酔させてしまう
周瑜は寛大で人に優しかったため、人望がありました。しかし、呉軍古参の「程普」とは折り合いが悪く、程普は若い周瑜を度々馬鹿にしていました。周瑜はそんな程普に対しても腰を低くして接したので、ついに程普も彼を認めるようになったそうです。
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