官渡(かんと)の戦いとは、曹操(そうそう)と袁紹(えんしょう)の両雄の間で行われた、長江以北の覇権を決定づけた戦争の事です。この戦いで袁紹(えんしょう)は没落し、魏の勢力範囲がほぼ決定した重要な戦争でもあります。狭い意味では、官渡決戦のみを指しますが、広義には官渡の前哨戦である、白馬・延津の戦いや最期の烏巣急襲までを含めている事もあります。
しかし、戦いが長い上に登場人物も多いので、ここでは要点だけを纏めて官渡決戦について紹介致しましょう。
前回記事:43話:孫策、後事を孫権に託して病没する
①曹操(そうそう)と袁紹(えんしょう)の勢力範囲
袁紹・・・冀州、并州、青州、幽州(現在の河北、山西、山東)
曹操・・・兗州、櫲州、司隷、徐州(現在の河南から江蘇省長江以北)
②両者の動員兵力(三国志演義による)
袁紹・・・総兵力70万人
曹操・・・総兵力7万人
③白馬・延津の戦い
袁紹(えんしょう)は、曹操(そうそう)の下にいた劉備(りゅうび)が徐州を占拠して反曹操(そうそう)を宣言した隙を突いて、17万の兵力を率いて、黄河を渡り曹操(そうそう)軍の拠点、白馬と延津を襲いました。それを知った曹操(そうそう)は、急いで劉備(りゅうび)を蹴散らし、白馬と延津に取って返します。
袁紹軍の総大将は、顔良(がんりょう)でしたが、曹操(そうそう)は荀攸(じゅんゆう)の助言に従い、自軍を二分して干禁(うきん)を陽動作戦に使い、白馬から数キロ離れた延津に移動させます。
顔良(がんりょう)は、これに掛かり、軍を二手に分けて、延津には7万、白馬には、自身が10万の兵力を持って渡海。それを見た曹操(そうそう)は、15万の全力で白馬の顔良に襲いかかり、曹操軍にいた関羽(かんう)が顔良(がんりょう)を斬り殺しました。
袁紹(えんしょう)は次に、文醜(ぶんしゅう)を繰り出していきます、ですが、再び、荀攸の計略に掛かり囮の輜重隊に襲いかかり、文醜(ぶんしゅう)は孤立して討ち取られます。
※演義では、関羽(かんう)が討ち取った事になっています。
④官渡の戦い
緒戦で勝利した曹操(そうそう)ですが、袁紹(えんしょう)軍の本隊が渡海してくると、形成を不利と見て、白馬と延津を廃棄し、かねてより築城していた官渡城に入ります。袁紹(えんしょう)軍は、70万人という大軍に対して、曹操(そうそう)が動員できたのは7万人と10分の1しかなく、加えて兵糧に乏しい状態。
曹操(そうそう)は短期決戦を狙い、袁紹(えんしょう)の70万の大軍に、細かく兵を出し損害を与えます、袁紹(えんしょう)大軍を活かし、軍を左右に大きく広げて、曹操(そうそう)軍を包み込む戦略を採用しました。
包囲殲滅を恐れた曹操(そうそう)は、官渡城に籠城し、ここから、官渡の戦いは籠城の持久戦に突入していきます。
⑤烏巣の急襲
持久戦でもっとも疲弊したのは曹操(そうそう)軍でした。官渡城は完全に包囲され、食糧は、袁紹(えんしょう)軍の輜重隊を襲って奪うという状態であり、曹操(そうそう)も不安を覚えて、許都に撤退を考え手紙を送って、戦略的な撤退を訴えます。
しかし、許都で留守を守る荀彧(じゅんいく)は、「今、撤退すれば袁紹の追撃を受けて全滅は免れません。天下を取りたいなら、今は辛抱です、勝機は必ず来ます」と返信し、曹操(そうそう)は踏みとどまる決意をしました。
一方で袁紹(えんしょう)軍は、度重なる曹操軍の輜重隊への襲撃に困り果てていました。その被害数は、輜重の車が数千台という規模であり、それがボディーブローのようにじわじわと効いてきたのです。
そこで、襲われるリスクを抑える為に、食糧の集積場所を減らし烏巣(うそう)という場所に全ての食糧を集めて補給を円滑にする事を考えて実行します。ところがこの情報は、袁紹(えんしょう)の配下にいたものの、待遇が悪かった許攸(きょゆう)という人物が曹操軍に投降して曹操にもたらされます。
曹操(そうそう)に投降した許攸(きょゆう)は、「袁紹軍の食糧庫は烏巣に集結していて守りも手薄、僅かな手勢でも派遣すれば、これを焼き払える」と進言。
曹操(そうそう)は、この情報を信じて、烏巣に5千名の軽騎兵を派遣し、手薄な警備兵を蹴散らして烏巣の食糧庫を焼き払います。
⑥官渡決戦、その後、、
これにより、形成は逆転、70万人の兵力は即座に、飢えるようになり戦意を喪失、袁紹(えんしょう)は大慌てで包囲を解いて、黄河を越えて、自領に引きかえしていきました。
この官渡の戦いは、短期決戦派と持久戦派で袁紹(えんしょう)軍の内部でも意見の対立があり、袁紹(えんしょう)も優柔不断だったので、対立は解消されませんでした。
敗戦後は、その抗争がさらに激化、袁紹(えんしょう)は対応に苦慮し、西暦202年に病気を得て、死去しています。
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