西暦190年、17名もの諸候から組織された反菫卓連合軍は、20万人という大軍を擁して、洛陽の前庭汜水関に陣を敷きます。その宿営地は、二百里、10キロメートルにも及んだと言われ、菫卓軍将兵を大いに恐れさせていました。
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董卓軍の2枚看板
菫卓(とうたく)は、猛将である華雄(かゆう)を汜水関の総大将に任命し、その背後にある虎牢関を呂布(りょふ)に守備させました。二枚看板を全面に押し出し、絶対に洛陽には踏み込ませないという鉄壁の守りの構えです。
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日本の関所(せきしょ)のイメージ
関所(せきしょ)とは、交通の要所に設置された、徴税や検問のための施設である。ところで関というのは、日本でいうと「関所」で、木で造られた貧相な門を守るのどかな検問所のイメージですが中国では勿論違います、それは、洛陽の都を守る城壁を持つ大要塞の事を意味していました。
反董卓連合軍の初陣・孫堅(そんけん)
最初に反菫卓連合軍で名乗りを上げたのは、孫堅でした。部下の程普と共に、汜水関に挑みかかった孫堅は、華雄の副将である胡軫(こしん)を斬り捨てて一番手柄を立てます。その事で意気上がる連合軍ですが、華雄は、それで意気消沈するような並の武将ではありませんでした。
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董卓軍の2枚看板・華雄の反撃
直ぐ様に反撃に移り、攻勢だった孫堅を押し戻してしまいます。この時に、孫堅は武将の祖茂(そも)を打ち取られました。連合軍は、勢いを殺すまいと、さらに次々と武将を送りだします、しかし、華雄は沈着冷静で、袁術軍の兪歩、韓馥軍の藩鳳を次々に斬殺。
恐るべし華雄
この華雄の強さに連合軍は意気消沈し、盟主の袁紹は、「こんな事であれば、顔良(がんりょう)と文醜(ぶんしゅう)を連れてくるべきであった、、」と嘆いていたと言われています。連合軍は、虎の子の武将をあたら失うのを嫌がり、華雄の挑発にも、誰も手を上げるものはいません。
曹操は、この状態を危ういと感じて「誰か華雄を討ち果たせる勇者はいないのか?」と叫びますが、辺りは水を打ったように沈黙してしまいます。しかし、この時に、黒髯を胸まで蓄わえた武将が名乗りを上げます。公孫瓚配下の劉備玄徳の義兄弟、関羽雲長でした。
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関羽の鮮烈なデビュー
「おお、勇者なり、景気づけの酒を飲まれい!!」
曹操は嬉色満面で関羽に酒を勧めますが、関羽は無愛想に固辞し、
「酒は、華雄を斬ってから頂く、、」と呟くと馬に跨り汜水関に向かいます。
華雄も、「また殺されに来たか」と怒声を発しながら、関羽に挑みますが、次の瞬間に首が胴から離れていたのは華雄でした。
関羽は華雄の首を引っ提げて陣営に帰還して、曹操が与えた酒を飲み干します、その時、酒はまだ暖かかったと言われます。関羽の電光石火の鮮烈なデビュー戦でした。と何度読んでも、三国志ファンは痺れる関羽の男っぷりですが、実際には、この話は演義のみのフィクションです。
実際に華雄を討ったのは孫堅であったと言われています。実際の反菫卓連合軍は、大軍を擁しながら徒に菫卓を恐れ、毎日、会議と宴会ばかりで血を流す諸候は少なかったのです。
その消極的な連合軍で、孫堅は一人奮戦し、それを嫌がった菫卓は、これを買収して自軍に引き入れようとしています。しかし、一本気で忠義に厚い孫堅は、「逆賊の手下になど、死んでもなるか!!」と即座に拒絶しています。反菫卓連合軍の強さは、その多くを勇猛果敢な孫堅軍の働きに、頼っていた危うい部分を孕むものでした。そして、その消極的な対応が後の連合軍崩壊の原因になっていきます。
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