周瑜公瑾は(しゅうゆ・こうきん175~210)まで生きた
揚州、蘆江郡舒県の人です。
三国志で活躍した人々は、大抵は先祖の経歴が明らかではない
身分の低い人が多いのですが、周瑜はその例外的なケースでした。
この記事の目次
周瑜の祖先は名門
周瑜の祖先には、尚書令という重職を務めた周栄(しゅうえい)や、
三公の一つ大尉を務めた周忠(しゅうちゅう)がいて、
父の周異(しゅうい)は洛陽の県令も務めるという名門の家柄。
周瑜も、そのような家名を受けて成人する頃には、
立派な風采を備えて美周郎と呼ばれました。
周瑜の運命が変わったのはいつ?
周瑜の運命が変わるのは、反菫卓連合軍に参加した
孫堅(そんけん)の息子孫策(そんさく)が生活の拠点を舒に移したからです。
孫策は周瑜と同い年だった事もあり意気投合し、
断金(だんきん)の交わりを結びました。
断金(だんきん)って何?
断金とは、金属を断つ程に強力な絆という意味です。
周瑜は自分が住んでいた大きな屋敷を孫策の家族に与えて
殆ど家族同然の付き合いをしていました。
西暦191年、孫堅が死ぬと孫策は袁術(えんじゅつ)の配下に入りましたが
次第に、袁術の政策の支離滅裂ぶりに愛想を尽かし、
その下を離れ、独立を標榜するようになります。
孫策に呼び寄せされる周瑜
西暦198年、周瑜は孫策に呼び寄せられて呉に帰順します。
その時に、周瑜は魯粛(ろしゅく)とも親交を結んでいて、
両名が呉に入る事になりました。
孫策は、周瑜の到着を喜び、建威中郎将という官位を与え、
兵士2000名、軍馬50頭、それに専属の軍楽隊を組織し
おまけに大邸宅を与えて異例とも言える大厚遇を行います。
何で孫策はこんなに周瑜に対して厚遇したの?
孫策は以前、周瑜の厚遇を受けた事を忘れておらず、
「まだまだこの程度では、周瑜の恩義に報いたとは言えない」
と常々言っていたそうです。
西暦200年、孫策は刺客の襲撃を受けて無念の最期を遂げます。
悲報を聴いた周瑜は、駐屯地巴丘を離れて葬儀を取り仕切り、
以後は、呉に留まって重臣の張昭と共に様々な雑務を取り仕切るようになります。
孫策の後は、18歳の孫権(そんけん)が継ぎましたが実績がない孫権を
呉の家臣や食客の中には侮る人間もいました。
孫権に実権が移った当初も全力でサポートをした周瑜
不安定になる呉の中で周瑜は、進んで孫権に臣下の礼を取り、
恭しく仕えて、少しも奢り高ぶる様子はありません。
この様子を見て、最初は孫権を軽んじていた家臣や食客も
孫権に忠誠を尽くすようになったそうです。
西暦208年、北方の曹操(そうそう)が
荊州の劉琮(りゅうそう)を降伏させて、荊州水軍を吸収。
曹操軍に対して周瑜と魯粛は徹底抗戦を主張
そして長江の南にある呉に対して降伏しなければ討伐すると告げると、
周瑜は魯粛と共に、徹底抗戦を主張します。
重臣の張昭や秦松というような重臣は、曹操の勢力を恐れて
呉の領土を保全するという条件を付した上で
曹操に降伏する事を孫権に提案しますが、
周瑜は、曹操の兵は北方の兵が大半、慣れない水上生活で
疫病が流行しているという事を主張。
同じ水軍でも呉の精兵が数倍も優れている事を孫権に説いて、
これを納得させます。
そして劉備と共に曹操軍に挑むことに
そして、周瑜と程普(ていふ)は、呉の精鋭3万人と
劉備(りゅうび)の軍勢と共に、曹操軍に水戦を挑みます。
周瑜の予想は的中し、曹操軍は少数の呉軍に押されて敗走、、
この勝利で周瑜達、主戦派は大きく支持される事になります。
老将黄蓋を使ってある一計を
さらに周瑜は、曹操軍本隊に壊滅的な打撃を与えるべく、
老将黄蓋(こうがい)に偽の降伏の書を出させたのです。
そして、それをもっともらしく見せる為に、周瑜は黄蓋と謀り
黄蓋に軍義の場でわざと自分を批判させ怒るフリをし
その刑罰として激しく鞭打ちを加えます。
これが歴史に名高い苦肉の計ですが、これを見た曹操のスパイ達は
黄蓋の投降は本物であると曹操に報告します。
黄蓋の降伏を受け入れる曹操
曹操が黄蓋の降伏を受け入れると、
黄蓋は牧草を満載した小舟に油をしみこませて闇世に船を出し
曹操軍の船団に近づいてから船に火を放って脱出。
船はそのまま、曹操軍の船に激突して炎上、炎は折からの
風に煽られてあっという間に燃え広がり曹操軍の大船団を焼き尽くし
天下統一を目前にした曹操の野望は頓挫します。
赤壁と呼ばれている由来がこの戦いで関係している
その炎は、闇世を昼のように照らし岸壁を火炎熱で
真っ赤に焦がしました。
それでこの土地は赤壁と言われるようになったそうです。
こうして曹操を退けた周瑜は、休む間もなく劉備と連合軍を組織
曹操を追撃しています。
深追いする周瑜
曹操はこれを防げず防戦一方で、曹仁と徐晃を江陵城に残し、
楽進を襄陽の守備に残して自身は北方に撤退しました。
周瑜は、勢いを駆って、曹仁の守る江陵を攻めて、これを苦戦の末に
奪取しますが、ここで流れ矢を胸に受けて重傷を負います。
以後も周瑜は、益州の劉璋を降し、関中の馬超と同盟を結んで
独自の天下三分の計で、曹操に対抗しようと壮大なプランを建てますが、
その途中の西暦210年に胸の傷が元で巴丘で陣没。
亨年は36歳という若さでした。
正史の周瑜は勇敢な漢だった
正史の周瑜は、演義で見られるような孔明に嫉妬し暗殺しようと
するような陰険さはなく、豪快で果断、そして風采の良い
好人物として描かれています。
ただ、運悪く早死にしてしまい、壮大なプランを実行できなかった事
そして、孔明と一時期、行動を共にしていた事で、
孔明の引き立て役として利用され損をしているのです。
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どうも、kawausoでーす、好きな食べ物はサーモンです。
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実は、kawausoはホログラフで存在しません(嘘)
この記事のデザインを担当した人:よりぶりん
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三国志初心者の新米イラストレーターでございます。
なにとぞ温かい目で見てやってください。宜しくお願い致します
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