三国志の群雄では、随一の速度で皇帝を名乗り、そして、秒速で滅びていった後漢王朝の名門中の名門、袁家の宗族、袁術公路(えんじゅつ・こうろ)。そんな彼にも、もちろん、配下の武将達が存在していました。しかし、大半の武将達は、三国志ファンに「誰それ?」という扱いを受けている悲惨ぶり、そこで、ここでは、彼等報われない袁術武将達の為に列伝を立てようと思います。
この記事の目次
袁術の大将軍(笑)橋蕤(きょうずい)と張勲(ちょうくん)
橋蕤と張勲は、ボンクラ揃いの袁術軍では、例外的に先見の明があった武将です。袁術の配下には、孫堅の遺児である孫策(そんさく)が一時期、所属していましたが、橋蕤と張勲は、孫策の能力を高く評価していて、個人的にも交流を持ち、袁術の没落後には、呉の孫策を頼ろうと考えていたと言われます。橋蕤と張勲は、袁術が、本拠地の南陽郡を追われ、放浪の末に、揚州の刺史陳温(ちんおん)が病死(袁術に殺されたとも伝わる)したのに乗じて揚州刺史に収まった時に、在野から取り立てられて袁術の部下になりました。
袁術崩壊にきっかけ
さて、袁術は、西暦197年には、皇帝を自称して仲王朝を建国しますが、それにより、周囲の群雄との間には、すきま風が吹く事になります。
取り分けても、献帝を擁している曹操(そうそう)との関係は最悪になりました。頼みの武将であった孫策も独立志向を強めて、出てゆき、袁術は、あれだけ嫌っていた呂布と同盟を組もうと画策します。袁術は、自分の息子と呂布の娘を縁組させて同盟を強固にしようと、韓胤(かんいん)を派遣して政略結婚を成功させようとします。
呂布も最初は、同盟に乗り気でしたが、部下の陳登(ちんとう)の父陳圭(ちんけい)が袁術との縁組に猛反対、かつて呂布が袁術から受けた不義理の数々を上げ、ここは、曹操と同盟を結ぶべしと焚きつけます。
呂布は、寸前の所で変心して韓胤を捕えて曹操に送りました。曹操は、これを斬首してしまいます。
起こった袁術は橋蕤と張勲を大将軍に任命
これに怒った袁術は、一転して呂布討伐の方針を固めます。三国志演義によると、ここで袁術は20万という大軍を集めて、橋蕤と張勲を大将軍に任命しました。大将軍は、朝敵を討伐する時に設置される臨時の防衛大臣職で軍の全権を握る職ですが、袁術は、これを同時に2名も設置したのです。さすが袁術、太っ腹、普通は1名だろう(笑)
楊奉(ようほう)と韓暹(かんせん)が寝返り大敗
しかし、袁術の威信を賭けた呂布討伐戦争は、後詰の楊奉(ようほう)と韓暹(かんせん)が陳珪の策によって呂布に寝返った事で大敗北。無理に大軍を動員した事で内政の才能に乏しい袁術の仲王朝の財政は破綻します。困窮した袁術は、近くに存在した独立小国、陳の劉寵(りゅうちょう)を謀殺して、陳城を乗っ取ろうとします。策略は上手く行き、袁術は、意気揚々と橋蕤と張勲、李豊(りほう)、梁剛(りょうごう)、楽就(がくしゅう)という名だたる(?)将軍を引きつれて陳に入ろうとしますが、そこには、曹操の軍勢が待ち構えていました。
地雷を踏んでしまった袁術、曹操から逃げる
そう、劉寵は、献帝の叔父にあたる皇族であり、その皇族を討ったというのは、曹操からすれば、大逆罪にあたるのです。袁術は、切羽詰まってとんでもない地雷を踏んでいました。曹操に勝ったためしのない袁術は、ここで全てを部下に任せて、すたこらと寿春に逃亡してしまいます。残された、将軍たちは、「えええ?聞いてないよぉ!!」でしたが、張勲は、それでも部下を励まして全力で曹操軍と戦います。
袁術軍の将軍・張勲は頑張るが
もっとも、それで勝てれば世話はないのであって、袁術抜きの袁術軍は、あっという間に粉砕、張勲は脱出しますが、橋蕤や李豊・梁綱・楽就が曹操軍に討ち取られてしまいます。逃げのびた張勲も、今度は寿春に襲いかかってきた曹操軍と戦いその隙に再び、袁術は逃亡、ここで袁術軍は壊滅しました。張勲は、袁術の没後も生き残り、交遊があった孫策を頼ろうと、呉に向かいますが、途中で廬江太守の劉勲(りゅうくん)に捕えられます。
以後、公式の記録には張勲は出てきません。
大将軍に任命されながら、不甲斐ない戦績しかない(まあ、諸悪の根源は袁術ですが)張勲と橋蕤は、ゲームにおいても、部下である紀霊(きれい)を大きく下回る武力しかなく、今でも袁術トホホ武将としてそのキャラクターを炸裂させています。